空音~そらね
時々ふと、あの懐かしい場所に帰りたくなる。
居心地が格別良いというわけでもなく、むしろ暗くて寂しい場所なのに…
初夏の風が吹き始めた日曜日の午後、図書館で借りた写真集を眺めていたら急に眠気に襲われた。
睡眠不足かな?と寝室のベッドに寝転がり、ベッドサイドの腰窓のレースのカーテンが風をはらんで揺れているのを下から眺めているうちに眠りに落ちた。
何かしらの夢を見ているとき、突然聞き覚えのある旋律が耳に入ってきて目が覚めた。そのノスタルジックな調べは不思議なくらいにはっきりと耳元で聞こえた。
移動スーパーの音であることは知っていた。と言っても、時々遠くから聞こえてくることがあっても、その姿を一度も見かけたことはなかった。
そんなスーパーの車をとうとう見ることができる…と思いながら起き上って5階の窓から道路を見下ろした。
風が私の耳元に音だけを運んできたのか、それらしい車の姿はなかった。
お昼寝からすっかり目覚めた私は、どこから聞こえたのだろう…と窓から見える景色を隈なくチェックした。
山裾の起伏の多い地形なので、高低差のある家々は複雑に入り組んで建っている。
思わぬところに車が走っていたり、人が歩いていたりするのはそこに道があるからだが、そんな立体迷路のような景色を眺めるのは普段から好むところでもあった。
多分、そういう地形だからこそバスが通れないような道も多々あり、簡単に外出できない人たちのために移動スーパーなるものが利用されているのだろう。
色とりどりの野菜や果物、日用品などを満載した小さなトラック。その雰囲気はむかしの駄菓子屋のそれと重なるものがあった。
仕事柄パソコンの前で何時間も過ごすことが多いので、運動がてらの散歩は欠かせない。たいていは飼っている犬と一緒に出掛けるが、駅前に用事があるときは、緑豊かな地区まで3kmほど歩き、そこからバスで駅前に出るのがいつものコースだった。
ある日、ひとりで散歩しているときに珍しくあの移動スーパーの音が聞こえた。自然に音のする方へと足が進む。
移動スーパーは、想像していた通りの姿で坂道の上に停車していた。初めて目にする軽トラの店には、キヨスクのような品揃えのほか、少量ながら野菜や果物も積んでいた。
2、3人の客に交じって私も何か要るものがないかと商品を物色していると、横合いからカートを押しながら小さな老女が現れた。70代後半くらいだろうか。坂の上に住む老人にはありがたいシステムに違いない。
ちょうど切らしかけていた単三電池のパックを買って店を後にしようとして振り返ると、老女が大きなスイカを乗せたカートを押しあぐねていた。
私は「大きなスイカですね」と言いながら近づき、親切心で老女のカートに手をかけた。老女は一瞬警戒の色を見せたものの、すぐに私にカートを
「どちらですか?」と家の所在を尋ねると、老女は坂のさらに上の方を指さした。
老女の家は林の中にぽつねんとした風情で建っていた。裏の竹藪がサラサラと音を立て、どこかでカラスが鳴いていた。
こんな大きなスイカを買ったのだから家族がいるのだろうという予想は外れ、この
「甘いといいですね、このスイカ」と言って私がカートを引き渡すと、
「ちょっと寄っておいきなさいな、こんなに大きなスイカ、ひとりじゃ食べきれませんから」と老女が笑った。
普段なら躊躇しそうなシチュエーションにもかかわらず、老女の誘いに素直に従ったのは、家のたたずまいが妙に懐かしく感じられたからであった。
築100年くらいかしら…そんなふうに思いながら、老女の後について家に入った。土間の広い平屋の木造で、大豆を炒ったような懐かしいニオイがした。
残暑の太陽光が雑木林と竹藪に遮られて室内は昼間ながら薄暗く感じられたが、慣れてくると逆に落ち着ける程度の明るさに思えた。
案内された部屋は裏庭に面した座敷で、畳は黄ばんではいるものの、畳縁がすり減っているということはなかった。
老女は思いのほかテキパキと動き、今スイカを冷やしているからと、土間の台所から冷たいお茶を運んできて私の前に置いた。
座卓を間にして老女と向き合ってお茶を飲んでいると、遠いむかしの記憶が不意に蘇った。
小学校に上がる少し前、母が病気で長期入院したときに北陸の田舎に一時預けられたことがあった。その時の光景だ。
それは、親戚筋から「なかとみのおばさん」と呼ばれるおばあさんの家だった。目の前に座っている老女と同じく小柄だった。ここと同じような質素な家で、向かい合って夕飯をいただいているときにどこからか汽笛の音がして、子どもながらにもの寂しさを感じたのを覚えている。けれども覚えているのはその場面だけだ。
なぜ実際の名前を呼ばずに「なかとみのおばさん」と呼ばれていたのだろうか、今更ながらそんなことをふと思った。
「中臣氏は、むかし神事や祭祀をつかさどっていた家柄ですよ」老女が言った。
物思いにふけりながら、何かを口走ってしまったのだろうかと考えていると、
「そんな家柄の人と駆け落ちなどしたものだから籍に入れてもらうこともできず、かと言って戻ることもできなかった…」
しかし、一緒になった相手の男性は若くして亡くなり、生活する術もなく家に戻ると、本家とは別棟の小さな家を住まいとして、『なかとみのおばさん』と呼ばれながら、独り余生を送ったのだという。
私は少し混乱して、無言のまま老女を見つめた。
「そういうことですよ」そう言って、彼女はスイカを切りにうす暗い台所へと消えた。
私は竹藪の庵を後にして、足早に坂道を下った。
今思っていることを口にしてしまうと、家に帰れなくなる…そんな荒唐無稽な思いに駆られ、見慣れた住宅地までは何も考えないようにして歩いた。
そして、いつもの大通りに出たとき
「あれは、なかとみのおばさんだったのかもしれない」とようやく声に出さずにつぶやいた。
部屋に帰ってベランダ側の窓から山を眺め、あの庵のあった辺りを探していると、ある光景が脳裏に浮かび上がってきた。記憶の奥の奥の方にあって初めて光があてたれたような場面だった。
田舎の小さな駅で、私は母親に抱かれていた。
母が退院して、一緒に家に帰る日のことだろうか。
嬉しくて母親にしがみついていた私は、柱の陰に人がたたずんでいるのを見つけた。
ちいさな人影はなかとみのおばさんだった。
なんでこっちに来ないのだろうと子ども心に思い、おばさんに笑いかけた。
おばさんは泣いているようだった。
私のそばで別れを惜しむと、別れがつらくなるばかりだと思ったのだろう…大人になった今ならわかる。あるいは、親戚の人たちと一緒に見送ることが憚られたのか。
ずっとそうやって感情を抑えながら生きてきた彼女の人生を思った。
私はあの竹藪の庵に再び行くことはあるのだろうか。
そもそも二度とはたどり着けない場所にあるのかもしれないと思った後に気づいた。
あの移動スーパーもひょっとしたらあちら側の存在だったのではないのだろうかと。
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