枕元に立つもの-間宮響子-
江渡由太郎
枕元に立つもの-間宮響子-
――それは、眠りが最も深く、魂が最も無防備になる瞬間に現れる。
間宮響子は、霊能力者として数え切れぬ怪異を見てきた。
悪魔憑き、呪われた家、人形に宿る執念。
それらは恐ろしくはあっても、理(ことわり)があった。
因縁があり、理由があり、終わりがあった。
だが、その夜の“それ”には、理由がなかった。
最初の違和感は、音だった。
眠りの底で、微かに畳が軋む音がした。
誰かが、そっと一歩を踏み出すような、遠慮がちな音。
(……来た)
響子は目を閉じたまま、そう理解した。
霊能力者としての長年の経験が、理屈よりも先に警鐘を鳴らす。
だが、金縛りは起きていない。
身体は動く。呼吸も普通だ。
――それが、逆に不気味だった。
音は止まり、代わりに気配が、枕元に沈殿する。
生きている人間が発する熱も、霊が放つ冷気もない。
ただ、視線だけが、そこにあった。
見られている。
それも、顔を覗き込む距離で。
響子は、あえて目を開けなかった。
見ない自由が、まだ自分に残されていると信じたかったからだ。
だが――。
「……ああ」
掠れた声が、耳元で漏れた。
声帯が朽ち、喉に水が溜まったような音。
喜びとも、安堵ともつかない、“確認”の声。
その瞬間、響子は理解してしまった。
これは、見られることを前提とした存在だ。
逃げ場はない。
見ないという選択肢は、すでに奪われている。
ゆっくりと、響子は目を開いた。
枕元に、老婆がいた。
白髪は濡れた海藻のように頬に貼りつき、
皮膚は蝋のように垂れ、眼窩の奥で目だけが異様に生きている。
だが、最も異常だったのは――。
その距離だ。
老婆の顔は、響子の顔から数センチしか離れていない。
呼吸をすれば、相手の息を吸い込んでしまいそうな近さ。
そして、老婆は微笑んでいた。
歯は黄ばみ、数本欠け、その隙間から、黒い歯茎が覗いている。
「……やっと、見てくれた」
声は、口ではなく、頭の内側で響いた。
響子は声を出そうとしたが、喉が動かなかった。
恐怖ではない。
もっと根源的な、拒絶反応だ。
(誰だ……?成仏できない霊か?それとも――)
「誰でもいいの……そんなことは」
老婆は、嬉しそうに目を細めた。
「名前なんて、いらないでしょう?あなたも、すぐにそうなるんだから」
その言葉の意味を理解する前に、老婆の顔がさらに近づいた。
額と額が触れ、冷たい皮膚が、響子の熱を奪っていく。
――見ている。
老婆は、響子を“見ている”のではない。
響子の内なる部分を覗いている。
記憶、後悔、忘れたはずの罪。
霊能力者として切り捨ててきた無数の死者の顔が、一斉に脳裏で蠢き始める。
「あなた、よく眠れるわね」
老婆は囁く。
「死んだ人たちに、こんなふうに見られているのに」
視界が歪み、天井が遠ざかる。
身体が、布団に沈んでいく。
(――まずい)
響子は、最後の力で呪文を紡ごうとした。
だが、言葉が老婆の声に上書きされる。
「大丈夫よ」
老婆の顔が、ゆっくりと変形していく。
皺が増え、皮膚がさらに垂れ、その輪郭が――響子自身の老いた顔へと近づいていく。
「あなたも、こうして誰かの枕元に立つの。眠っている顔を見るの。起きるまで、ずっと」
その瞬間、響子の意識は、闇に落ちた。
朝。
響子は、布団の中で目を覚ました。
陽光が差し込み、昨夜の出来事が、悪夢だったかのように思える。
だが――。
枕元の畳が、わずかに凹んで響子は震える手で、自分の頬に触れた。
皺はない。
だが、妙に冷たい。
そして、ふと気づく。
部屋の隅。
姿見の鏡の前に、見覚えのない老婆の影が映っている。
影はこちらを見て、にたりと笑った。
――今夜は、どこで眠ろうか。
――(完)――
枕元に立つもの-間宮響子- 江渡由太郎 @hiroy
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