──壱── 純愛、出逢ひて。

妖しき青年

 この世は無情な地獄である。


 陰と陽が混在する華やかでかげりのあるここ帝ノテイノクニには、ひとやひとならざる者が暮らしている。

 ひとはオモテに立ち、ひとならざる者はウラに立つ。そしてその中間に立つ者も存在する。


 数少ない狭間の者はオモテでひとに混じり生活を送っていた。表の仮面を着けて。

 しかし、一歩表から外れれば彼らは何者でもなくなる。表と裏の架け橋という名の道具に成り下がるのだ。

 道具はいずれ寿命を迎えて朽ちる。それはひとも同様であるが、狭間の者とひとの寿命では意味合いが違うのだ。


 この國は元来、穢れていた。それは帝ノテイノクニが名を馳せる以前からの呪いである。

 中間に生きる者たちはこの國が穢れた土地であると理解しながらも事実を黙認している。

 犠牲無くして均衡は保てない。それがこの國の、世界のコトワリだからだ。


 このくにの人々は狭間の者の生命いのちを代償に日々を送っている。

 陽に生きる者は爛々と陽光を浴びて円舞曲ワルツを踊り、陰に生きる者は陽から零れた光を養分に地を這う。

 ひとは犠牲の上で生きているとはつゆ知らずに、格差という愉悦に浸っていた。


 そんな世界の片隅で怠惰に溺れる男がひとり。男は手入れのされていないであろう髪を乱雑に掻き上げ深いため息を洩らす。

 男が嘆息するその理由は明白。男には“あか”が足りていなかった。

 自身を恍惚と沼に引きり込むような彩が欲しい。狂うほど鮮やかで艶やかな“あか”で満たされたい。そんな欲がふつふつと湧き上がる。


 ──あか。あか。あか。

 この寂しがり屋を満たせる“あか”はどこ?

 赤、紅、赫。

 この狂った鬼人を愛せる“あか”はどこ?


 知らん子、要らぬ子、孤独な子。

 誰でもいいから、この流浪なワタシを“あか”で染め上げてくだされ!

 

 気怠げに伏せられた三白眼に映るのは華美な街。和洋折衷──多種多様な人々が往来する陽の世界。

 この橋からは様々な景色が一望できる。


 例えば、そこの女學生。桜吹雪の中で艷やかな髪を靡かせる彼女たちはまるで春の精のよう。

 例えば、そこの男子學生。漆黒の帽子と乱れのない制服を纏い帝國テイコクの紋章を輝かせるその姿はまるで舞台上の演者のよう。


「若いって、いいねェ……」


 皮肉交じりにそう嘆いてみるが自身の醜さが露出するだけ。

 嗚呼、嫌でも耳に入る朝の活気が心底憎らしい。

 嗚呼、ころころと鈴を転がして笑うひとの声が心底煩わしい。


 男には何もなかった。かつて持ち得ていた美貌も、きめ細やかな肌も、凛とした長身もすべて過去に置き忘れてしまった。

 残ったのは“あか”に心酔する猫背の三十路のみ。血色感のない顔には所々にたるみと皺が刻まれている。極めつけにはどんなこうでさえも誤魔化ごまかせない煙草タバコの臭い。そんな男に寄りつく者など誰もいない。


 男にも遠い昔には愛人がいた。男は彼女のいろを心から愛していた。

 そんな愛した女性ひとは男の狂気に当てられ霞と化した。男の心に深いキズを残してはたりと消えてしまった。

 それからだろうか。男がどんな“あか”を創造うみだしても満たされない病に侵されたのは。

 國を隅々まで探索しても男が望む“あか”はついぞ発見することができなかった。


 ふぅ、と吐いた紫煙が春風に融けていく。男は擦り切れだらけの指先で悪戯に煙管キセルを撫で回す。これは男の癖であり過去の愛人から享受した技であった。

 はらはらと指の隙間から焦げた鱗粉が零れ落ちる。併せてよみがえるのは愛人との会話。分散する鱗片を自身に喩えていたのはいつの日だったか。


「……くそっ、思い出せねぇ」


 このまま無駄に日々を過ごすならばいっそ、死んでしまえば──と男の脳裏によぎり──自嘲する。

 男は小心者であった。男に死ぬ勇気があれば、とうの昔に帯で首を吊るなどして自死を選んでいただ

ろう。


 ──いっそ、殺されてしまおうか。


 過去からも“あか”の熱情から逃れられないのならば、全財産をはたいてでも殺しを依頼してみようか。

 刺殺、撲殺、毒殺、何でも構わない。己の息の根を確実に止めてくれるのならば、快楽殺人鬼にも喜んで身を差し出そう。


「……馬鹿らしい」


 男には裏社会に通ずる伝手は愚か身近な友人でさえもいない。ひとりぼっちの淋しい人生なのだ。

 帰ろう。帰って安い酒でも飲もう。浴びるように飲んで、浅い夢の海に沈んでしまおう。

 男は曲がった背を反らし伸びをする。空は果てしない蒼穹。ぼきぼきと鳴る骨だけが男に現実を突きつける。 


 酒のサカナは何にしようかと思考を巡らせていた刹那、男の身体に強い衝撃が走った。ぐらりと体躯が傾き危うく橋から落下しそうになる。

 痛みに悶える男の視界の端をよぎったのは色褪せたトランクと若い盗人おとこ


「あっ、俺の鞄!」

 

 気がついた時には時既に遅し。間髪入れずに盗人を追うがとしが邪魔をして上手く走れない。酒により蓄積された毒素が全身を駆け巡り息切れを誘う。

 しかし男は追い続ける。肺が痛もうとも、身体が悲鳴をあげようとも鬼の形相で走った。


 盗まれた鞄はかつての愛人が男に贈った最後の贈物なのだ。そして、その鞄の中には男の分身である商売道具が一式揃っている。男は鞄を失えば無職になってしまう。心のままに“あか”を追求することができなくなってしまう。


 だが無情にも距離は開いていく。これほどまでに自身の年齢をうらんだことはないだろう。

 数十メートル先は雑多溢れる市街地。盗人がひとの波に呑まれてしまえば追跡は絶望的になる。

 しかし相手は若い盗人おとこついに追うのは旬が過ぎた中年。

 万事休すか──と諦めかけ──はたと気づく。


 空を覆う巨大なかげり。ふわんと舞い落ちるのは淀んだ暗雲か、黒い蝶か。

 絢爛たる風貌のそれが學生服姿の青年だと気がついたのは盗人の悲鳴が響いたときだった。

 鍵の開いた鞄から散らばる筆と色彩豊かな紅。びゅう、と風に吹かれた桃色の花弁が青年を飾る。


 眉目秀麗──それ以外言葉が思い浮かばない。


 濡れた黒髪にすらりと伸びた体躯、陶器の如く白い滑らかな肌、切れ長の双眸に澄んだ硝子玉の瞳。儚く伏せられた睫毛の隙間から覗く紫水晶アメジストの輝きが男の姿を捉えた。


 青年のカタチのよい唇が言葉を紡ごうと動いたが、声を発する間もなく地面に伏せられた盗人が抵抗するように暴れる。

 盗人の爪が、ぴ、と青年の頬に一本の線を描いた。つう、と裂けた肉から流れる鮮やかな液体。


 ──うつくしい。


 くらりと目眩がした。完璧であった造形にひとつの欠陥が露わになった、ただそれだけなのに、この光景の異質さから目が離せない。

 それは盗人も同じようで、大きく目を見開きぼそぼそと何かを呟いている。男は青年に見惚れていたが、反対に盗人は恐怖に肩を震わせていた。


 青年はその一瞬の隙を見逃さず、より一層強く盗人を押さえ込む。盗人は震える声で何度も懺悔を繰り返したが遂には泡を吹き地面に崩れた。

 どうやら気絶したらしい。白目を剥きぴくりとも動かない姿は死人と相違ない。


 どくどくと心臓が疲労と困惑で早鐘を打つ。目の前で起きた一連の出来事に理解が追いつかず呆けていると、青年が男の頬に触れた。じんわりとてのひらから心地の良い体温が伝う。ひとの温もりにより早鐘を打っていた心臓が平静を取り戻していく。


 この青年は何者なのだろうか。

 何故、男を助けたのだろうか。


 否、それよりも。

 この蠱惑で美しい青年に己のすべてを捧げてしまいたい──。


 これは洗脳か、はたまた錯覚なのか。


 青年の整った目が細められ、弦楽器のような声が男の耳朶をくすぐる。

 青年は結びかけていた言の葉を再び紡いだ。


「ねぇ、せんせ。おれにせんを引いてくださいな」

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