推しじゃない君を、好きになるまで

ごろりん

第1話 無気力な朝と、名前のない出会い

朝の空気は、いつだって同じ匂いがする。

湿り気のないコンクリートと、少し焦げたパンの匂いが混じった、平日の朝。


相馬恒一(そうま こういち)は、スーツのポケットに片手を突っ込みながら駅へ向かっていた。

イヤホンから流れているのは、半年前に引退したVtuberのアーカイブ配信。


『んちゃ~!みんな今日も来てくれてありがと!』


画面の中の彼女は、今日も元気だ。

もう二度と更新されることのない、過去の笑顔。


仕事は嫌いじゃない。

正確に言えば得意な方だ。能力もそれなりにあると思ってるし、

実際にそれなりに評価もされている。

ただ、心が動かない。


動くのは、推しの配信を見ている時だけだ。


「……今日も何事もなく終わってくれよな。」


信号待ちの中、独り言のようにつぶやいたその瞬間。


「――あっ」


視界の端で、誰かがよろけた。


横断歩道の手前。

スマートフォンを見たまま、ふらりと前に出た女性。


「危ない!」


クラクションが鳴り、ブレーキの甲高い音が空気を裂いた。

考えるより早く、恒一の体は動いていた。


女性の腕を掴み、強く引き寄せる。


次の瞬間、強い衝撃。

視界が反転し、地面が近づいてきて――

それきり、意識が途切れた。




目を覚ますと、白い天井があった。


消毒液の匂い。

カーテン越しに差し込む、やけに穏やかな昼の光。


「……ここ、どこだ」


喉がひどく乾いている。

体を起こそうとして、全身に走る鈍い痛みに顔を歪めた。


「無理しないでください!」


少し慌てた声。


カーテンの向こうから現れたのは、見知らぬ女性だった。

肩までの黒髪をひとつにまとめ、少し大きめのパーカーを着ている。


「よかった……目、覚めたんですね」


心から安堵したような表情。

その顔を見た瞬間、胸の奥が小さくざわついた。


――どこかで、聞いたことがある声。


「俺……」


「あなた、私をかばって車に……。軽い骨折だけで済んだって、お医者さんが」


申し訳なさそうに、彼女は視線を落とす。


「本当に、ごめんなさい。私の不注意で……」


「いや……」


恒一は天井を見上げたまま、言葉を探した。

助けたことを後悔しているわけじゃない。

ただ、仕事以外にこうして誰かと話すのが、久しぶりすぎただけだ。


「……無事なら、それでいい」


彼女は一瞬きょとんとしてから、小さく笑った。


「変な人ですね。でも……ありがとうございます」


その笑い方。

ほんの少し首を傾ける癖。


また、胸がざわつく。


「……名前、聞いても?」


「朝霧、澪です」


「相馬です」


それだけのやり取り。

なのに、不思議と沈黙が気まずくなかった。


「……明日も、来てもいいですか?」


澪は、まるで当然のようにそう言った。


「え?」


「お見舞いです。相馬さん、しばらく入院ですよね」


断る理由は、なかった。


「……好きにしてください」


澪は、またあの笑顔を浮かべた。


「はい。じゃあ、また明日」


カーテンが閉じられ、病室に静けさが戻った。


恒一は天井を見つめながら、ゆっくりと息を吐く。

知らない相手と、あれだけ会話をしたのは久しぶりだった。


「……変な人だ」


助けただけの相手が、毎日見舞いに来ると言う。

普通なら、もう少し距離を取るものじゃないか。


イヤホンケースに触れ、入院前まで聞いていた配信のことを思い出す。

今は、再生する気になれなかった。


誰かと話したあとの病室は、

いつもより少しだけ、静かすぎる気がした。

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