MOTHER
y.
第1章
1
その日、私はようやく本当の家族に巡り合えたのだと思った。
澤部史郎(さわべしろう)はどこにでもいるごくごく平凡な40代の男である。
商店街の片隅で小さなパン屋を営み『無理はしないで長く細く』をモットーに、可もなく不可もない経営を約10年間続けてきた。
しかし、彼はそんな無難な日々に、自ら別れを告げることになる。
その日『ベーカリー・サワベ』のドアをそっと押し開けた1人の女性客。
彼女と運命の出会いを果たしてしまったことが、澤部史郎の終わりの始まりだった。
その女性客は地味な風貌で、最初はレジに立っていた史郎も店内にまばらにいた客も、彼女の入店に気付かないほどだった。
仕事帰りらしく事務員風の服に身を包み、化粧っ気のない顔にはこれまた野暮ったい黒縁眼鏡をかけている。
史郎はその女性客に「いらっしゃいませ。」と一声掛けはしたものの、一瞬後には彼女の存在を忘れてしまっていた。
それほどまでに影の薄い女性だったが――……しかし、次の瞬間、そこにいた全員が彼女に注目せざるを得なくなった。
「おじさんっ!!ちょーろころこーね、くーらさいっ!!」
穏やかな空間に、突如雷が落ちたかのような大音声。
史郎と店内にいた2人の常連客が、ギョッとした目を女性の方に向ける。
正確には、女性の足元。
そこには、3歳くらいの女の子が立っていた。
丸い顔に丸い瞳の小さな女の子が、ニコニコと笑いながら再び叫ぶ。
「おじさんっ!!ちょーろころこーね、くーらさいっ!!」
『ちょーろころこーね?』と、史郎はカウンターの中から困惑顔を返した。
その時、女の子の母親と思われる事務員風の女性が静かに口を開いた。
「……夕子さん。ちょーろころこーねではなく、チョココロネです。」
「ちょーここころーねっ?」
「それと、お店の中で大声を出すと他の方の御迷惑になります。もう少し小さな声で……。」
「おじさんっ!!ちょーここころーね、くーらさいっ!!」
「………。」
女性は申し訳なさそうに史郎と周囲の客に向かって頭を下げた。
幸い、店内に無邪気な女の子の無邪気な振る舞いを咎める者はいなかった。
微笑ましい母娘のやりとりを、寧ろ温かく見守っている。
その時、常連客の年配女性が女の子に声を掛けた。
「お嬢ちゃん。チョココロネならここにあるわよ。」
「ちょーここころーね!!ちょーここころーね!!」
まるで宝物を発見したみたいに女の子が興奮し、母親をますます困り顔にさせる。
「おかーしゃん!!ゆーこのちょーここころーね、とってー!!」
「夕子さん、その前にこちらの方に御礼を言わないと駄目でしょう。……本当に申し訳ございません。お買い物の邪魔をしてしまって。」
「いえいえ、元気があって、可愛らしいお嬢さ……。」
その時だった。
母親の顔を見た瞬間、常連客がハッと息を呑んだのは。
突然時が止まったかのような奇妙な沈黙が両者の間に生じ、史郎も不思議そうにその様子を眺めていた。
そこへ、再び元気な声が割り込んでくる。
「おかーしゃんっ!!ゆーこのちょーここころーね!!ゆーこのちょーここころーね!!」
小さな暴君にせがまれて、母親が「はいはい、分かりました。」と溜息まじりにチョココロネをトレイにのせる。
それからいくつかの総菜パンを取って、レジで待つ史郎の前にやってきた。
カウンターにトレイを置き、丁寧に頭を下げる。
「娘がお騒がせして申し訳ございません……。」
「ははは、気にしないで下さ――……。」
史郎は普段通り接客しようとして、次の瞬間、先程の中年女性と全く同じ顔つきになった。
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