真冬に聴く「高嶺の花子さん」は、なぜこんなにも痛いのか ——ある冬の再会と、一時停止ボタンのない世界について

@KFGYN

真冬の「高嶺の花子さん」は、なぜこんなにも痛いのか

地元の駅前にあるチェーンの居酒屋は、湯気と喧騒で飽和していた。

ガラス戸の向こうには、正月の鋭利な寒気が張り付いているけれど、店内は安っぽい熱気で満たされている。僕たちのテーブルの周りだけ、まるでエアポケットのように凪いでいた。

「久しぶりだな」

友人が笑って、ジョッキを傾ける。僕たちは大学三年生の冬を生きていた。

かつては毎日のように顔を突き合わせていた頃と、空気は何ひとつ変わっていない。久しぶりの再会だというのに、僕たちの間に探り合うような気まずさは微塵もなく、遠慮のない軽口がポンポンと飛び交っていた。

会話は滑らかだった。けれど、僕は気づいていた。

彼が巧みに、ある一つのピースだけを避けてパズルを組み立てていることに。

いつもなら真っ先に出るはずの、あの人の名前。僕の青春のすべてを吸い込んだ、初恋の人の話題だけが、すっぽりと抜け落ちている。

予感は、冷たい水滴のように背筋を伝った。

僕は平然を装い、枝豆の皮を指先で弾きながら、何でもないことのように尋ねた。

「そういえば、あいつ、元気?」

友人はジョッキを口に運ぶ手を止めず、けれど視線だけをふいと明後日の方向──壁に貼られたビールのポスターあたり──へ逸らした。

「ああ、あいつ? 先月結婚したよ」

さっきまで教授の悪口を言っていたのと全く同じ、乾いた軽さだった。

店内のBGMも、隣の席のサラリーマンの笑い声も、何も変わらなかった。ただ、僕の鼓膜の奥で、何かがプツリと切れる音がしただけだ。

僕が言葉を詰まらせるより早く、彼はジョッキをテーブルに置き、強引にハンドルを切った。

「でさ、お前の方はどうなんだよ。東京だと就活も早いんだろ? もう説明会とか行ってんの」

その流れるような話題転換には、一秒たりとも沈黙を作らせないという強固な意志が滲んでいた。

ここで僕が立ち止まることも、悲しむ顔を見せることも、彼は許してくれない。それが彼なりの、残酷で最大限の配慮だった。

僕は引き攣りそうな頬を無理やり持ち上げ、友人が用意してくれた逃げ道へと足を踏み出す。

「……まあな。ぼちぼちやってるよ」

世界は色を失っていたけれど、僕は笑うことができた。人間というのは、案外頑丈にできているらしい。

実家の自室に戻ると、暖房の効いていない部屋の寒さが、肌を刺した。

僕は布団に潜り込み、YouTubeを開いた。

検索窓に打ち込んだのは、『高嶺の花子さん』。

真冬の夜に聴く、真夏の片思いの歌。

イントロが流れた瞬間、季節外れの入道雲と、蝉時雨の記憶が、凍てつく部屋に幻影となって溢れ出した。

《会いたいんだ 今すぐその角から 飛び出してきてくれないか》

ボーカルの切実な声が、僕の胸の空洞に反響する。

このミスマッチが、痛みを鋭利に研ぎ澄ませていく。

曲が終わると、画面の右側には「あなたへのおすすめ」として、失恋ソングやバラードがずらりと並んだ。

アルゴリズムは、僕の心の傷口を正確に解析していた。

僕は指先だけで、次から次へと提示される悲しみの処方箋を再生し続けた。

関連動画をタップするたびに、時間は溶けていった。

深夜二時、三時、四時。

画面の中の歌手たちは、僕の代わりに泣き、叫び、後悔を歌ってくれる。そのループに身を委ねている間だけは、呼吸ができた。

痛みは消えない。けれど、痛みがそこにあることだけが、僕と彼女を繋ぐ唯一の細い糸だったから。

ふと気づくと、カーテンの隙間が白んでいた。

画面を消すと、静寂が耳鳴りのように押し寄せてきた。

窓の外から、雀の声が聞こえる。

夜は明け、朝が来てしまった。

僕の心はまだ昨日の夜に置き去りにされたままで、内臓が鉛に変わったように重たい。

それなのに、世界は何事もなかったかのように回転を続け、新しい一日を僕の目の前に突きつけてくる。

(……この星には、一時停止ボタンすらついていないのか)

どれだけ僕が絶望の淵にいても、地球は一秒たりとも待ってはくれない。その圧倒的な不可抗力が、今の僕には暴力的にさえ思えた。

僕は重たい体を起こし、のろのろとカーテンを開ける。

冬の朝の光は、あまりにも白く、僕の網膜を容赦なく焼いた。

日常が始まる。

始まってしまう。

僕は、まだ癒えていない傷口を抱えたまま、この眩しすぎる光の中へ歩き出さなければならない。逃げ場のない朝が、ただそこに在った。

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