第2話 セキララビコウズ

「え? セトさんについて知りたいの?」


 湯気立った学食のきつねうどんに息を吹きかけるのを中断して、佳苗かなえが私の問いを不思議そうに反芻する。


 私だって、叶う事ならあの女の情報などこれ以上増やしたくない。脳内にセトのフォルダが存在するという事実だけで、口に運んだ生姜焼き定食からありもしない苦味を感じてしまうくらいなのに。


「いいけど、私もあんまり関わりないから知ってることしか話せないと思うよ……?」

「それでもいいから、お願い」


 今はどんな小さな情報だろうと手に入れなければ。悪口も暴力も効かないあいつに嫌われる方法を見つけるために。


 惚れた弱みというやつか、そんなに強く頼まれては断れないとばかりに佳苗がぽつぽつと口を開く。


 彼女の名はセト。フルネームは知らない。学年、年齢ともに不明だが酒を飲んでいるから恐らく成人済み。何人も恋人がいる同性愛者で、女テニじゃない女の人がよくセトを尋ねて部室に来る。飲み会や合コンに誘えば二つ返事でOKをくれるため、人数合わせで何度もお世話になっている──。


 あらかた想像に難くない人となりをいくつか語り終えた時点で、佳苗の口は真一文字に結ばれてしまった。


「それだけ? こう、嫌いなものとかは?」

「うーん。ごめん、分かんないや。寡黙な感じの人だから、わざわざ話す機会もなくて。ほんと、力になれなくてごめんね……」


 焦るあまり表情が剣幕になっていたらしい。委縮した彼女へ咄嗟に励ましの言葉をかける。それにしても、寡黙? あのペラペラと回る口のどこに静謐さが存在しているのだろうか。


「えっと。それで、なんで急にセトさんなの?」


 何とか平静を取り戻した佳苗に、突拍子のない質問の真意を尋ねられる。


 なんで。ああ、本当になんでなんだろう。そんなの私が今一番知りたいことだ。


 あの女は――セトは。


 どうして私のセフレになった?





 思い返すは、あの最低な目覚めの続き。


 どれだけ心が拒めども、アルコールと薬の抜けきらない体ではまともに抵抗することも叶わない。


 じっとりと削り取るようなキスが、あれから何分続いただろうか。


 嗚咽が止まる頃にはもう全てがどうでもよく思えてきて、垂れて流れるよだれもそのままに汚れ切った体のすべてを放棄する。自然と瞼が落ち込んで、わずかに籠っていた体の力も霧散していく。


 怒りと恨みと悲しみと。混ざりきって飽和した心の中では髪を撫でる指の感覚と奈落に落ちていくみたいな恐怖だけが嫌に鮮明で。


 火傷しそうなほど熱い指先が次はどこへと灯るのか。自分とはまるで違う生き物であるそれにいくら慄き震えども、そのすべやかな手のひらは頭の上から離れようとしない。


 ゆっくりと閉ざした瞼を開けば、目と鼻の先で相変わらずの眉目秀麗が熱に浮かされたような微笑みを湛えていた。


「……するんだったら、早くシてよ。そういう優しくするのとか、ほんとキモい」

「えー? なぎちゃんシて欲しいのー?」

「そんなわけないでしょ。頭までクソなの、お前」


 セトがわざとらしく頬を膨らす。私の癇癪めいたパニックにより床へ落ちた布団を拾い上げては、それで自身と私を覆い隠して慣れ馴れしく私の素肌へ抱き着いた。


「そんなこと言うなら、今日は満足するまで離してあげないもーん」


 いちいち気に障る甘えた口調だ。すぐにでも跳ね除けてしまおうと思えど、体中に巻き付いた手足はがっちりと結ばれていて思うように身動きが取れない。無駄に背丈だけ大きいからに。


「ってか今日金曜でしょ。私朝から講義入ってるの。さっさと離して!」

「いやでーす。離しませーん。あ、でも可愛くおねだりしてくれたらいいよ?」

「死ね、クソ女」

「不合格。残念でしたー」


 殊更に体を密着させるセト。ふざけやがって。気色悪い。誰がお前なんかに媚びてやるものか。


「あ、でも」


 失くしたスマホの場所でも思い出したみたく唐突に、セトは私の頬に手のひらをぴったりと貼り付けてその視線をそっと奪い取る。


「私のお友達でいてくれるなら、離してあげてもいいよ」


 お友達。ほんわかした響きに面食らうも、少し考えてすぐその比喩のヴェールはズタズタに裂けていく。


 こいつは、私をセフレにしようと企んでいる。少なくとも二人以上の女と関係を持っている人間に今更倫理を説く気はないが、そこに私を加えようとしているのなら話は別だ。


 もしこいつのお友達セフレになったら。あの内臓がひっくり返るような不快感をもう一度、あるいは何度も。気に入られでもしようものなら、何百回と味わう羽目になるのだろう。


 想像しただけで鳥肌が立つ。そんなのいつ気が触れたっておかしくない。最悪と背中合わせで過ごす大学生活なんて私は御免だ。


「そんなの、なるわけないで――」


 否定の言葉を言い切るより先、頬を撫でていたセトの指に尋常じゃない力が籠る。一拍遅れて走る強烈な圧迫感。痛い、痛いいたいいたい! 頬骨がきしむ音を初めて聞いた。頭蓋の内側でアドレナリンが駆け巡る。今にも爆ぜてしまいそうだ。


「ぃた、い」


 辛うじて音になった声をセトの顔目掛けて呟いた。


「ぅぁ、あ。ご、ごめ……ごめん、なぎちゃん」


 青くなったセトが咄嗟に離したらしい手から必死に飛び退いて、まともに動かない口蓋のせいで気管に流れ込んだ唾液をむせて吐き出す。


 酸欠で明滅する視界の端、なおも私へと伸びかけたセトの手を払いのけた。


「触らない、で。やめて」


 こひゅうこひゅうとみっともない音を立てながら鳴る喉は、我ながらなんとも弱々しい。


「ごめん。ごめんね、ごめんなさい……友達じゃないって、いやで、こわくて……ごめん、ごめんね……」


 けれどそれよりもっと弱々しいのが、隣で蹲って泣きじゃくり始める。


 突然の噛み締めるような号泣。ぺたんと折りたたまれたように小さく、触れれば折れてしまいそうなそれを見ているとまるで幼子が目の前で泣いているような錯覚に陥る。


 慰めなければ。反射的に湧き出た義務感を未だ残る頬の痛みで征服する。ああ、危ない。これは、この情けない姿はきっと罠だ。


 無理やり犯して優しくて、次は暴力に懇願と来た。こんなの典型的なDVそのものじゃないか。こいつは一体どれだけの人間をストックホルムの海に沈め殺した? 何人の女が犠牲になった? 想像するだけで末恐ろしいほどセトの様子は自然そのものだった。


 白いシーツに灰色の水溜りを作りながら、うわ言のようにごめんごめんと謝り続けるセト。この情緒のイカれた怪演を今までの女全員にやってのけているなら大したものだ。勝手に役者にでもなればいい。


 無防備を晒すセトを横目に、衣装棚近くであいつがばら撒いた服を適当に見繕う。ブラは……あいつのサイズに見合わない小さいのが一着だけあった。やたら幼いデザインだし誰のものかも分からないがとかく拝借する。


 上下ともにそそくさと着終わって、足早に部屋を出ようと扉へ手をかける。


「……まって」


 背中に頼りない声がかかる。上擦って掠れた聞くに堪えないはずの涙声が、何かと重なった。重なってしまった。なぜ、なぜ? 私の脳味噌はとうとうおかしくなったのか?


「いかないで」


 蹲っては俯いて。弱々しくも嫋やかで。怯えながらに上げた輪郭。それを伝う涙がカーテンからこぼれた朝日に照らされて宝石みたいに煌めいた。


「なぎちゃん……」


 その縋りつくように無様な顔は憎々しいほどに綺麗で。思い出の中の寒空が叩き起こされる。


『なぎ、ちゃん……?』


 あれは3月、帰り道。奪われた唇に惑い嫌悪するあの子の震え声。ああやめろ、出て来るな。その目は、その声は。お前のものなんかじゃ決してないのに。


 どうして、世界で一番嫌いなお前が――





小夜さよちゃんに、似てるんだ」


 思わず吐いた悪態。その最悪な事実を口にしてしまえば、美しくも痛々しい薔薇のような記憶が意識の深くへ克明に刻まれていく。結びついてしまった。似ても似つかないあの女と、影すらも愛おしいあなたの名残が。


「……そっか。似ちゃってたか」


 寂しそうな佳苗の声が聞こえて、それでやっとここが大学の食堂であることを思い出す。


「あ、いや、今のは違くて――」

「いいよいいよ、気なんて使わないで。そうだよね……それで、私とも付き合ってくれたんだもんね」


 咄嗟に否定を重ねようとするも、出来ない。違うと言えば噓になってしまうから。貼り付けたみたいな作り笑いを浮かべたまま、佳苗は続けて口を開く。


「ほら。私は違ったけど、セトさんは小夜さんの親戚かもしれないでしょ」


 すみません、ご家族に小夜って子はいませんか。私が佳苗にかけた初めての言葉はそれだった。後ろ姿に感じた面影のまま、もしかしたらと一縷の望みをかけて初対面の人間にそう尋ねたのだ。


 結果的に彼女は小夜ちゃんの親戚でもなんでもなくて、その時出来た縁がきっかけでよく話すように――ひいては交際まで至ったわけだけど。


「会えるといいね、小夜さんに」


 何の嫌味も感じない清廉な声。好きになった相手が自分じゃない誰かと結ばれるなんて最悪なことをこうも心から願えるものなのか。少なくとも、私には絶対出来ないことだ。


「うん……ありがとうね」


 こんなにも素敵な女の子なのに、私の目には悔しいほど輝いて映らない。どれだけ純真に想ってくれても、記憶の中でなお太陽のように全てを焼き尽くすあの子には届かない。まるで憑りつかれているみたいだと我ながら思う。


 けれどそれすらも喜ばしく感じてしまうから、本当に私という人間には救いようがない。


 救いようがないから、手を伸ばした。伸ばしてしまった。それでどんな火傷を負うのかなんて、一片たりとも考えすらせず。


 ポケットの中でスマホが震えた。ポップアップされたそれに目を通す。


『お家でまってるねー』


 テキスト上でさえ気の抜ける口調だ。こんな腑抜けたメッセージの差出人なんて一人しか思い当たらない。


「それじゃあ、今日はありがとうね」

「あれ、凪輪ちゃんって今日午後講義入ってたっけ?」

「あー。講義はないんだけど、ちょっと用事があって」

「そっか。頑張ってね!」


 特段の詮索もせず声援を送り、すっかりぬるくなったうどんを啜り始める佳苗。折角のうどんなのにちょっと申し訳ない事しちゃったな。


「また何か困ったこととかあったら手伝うから」


 笑顔の佳苗に手を振り返しながら、私は数時間ぶりのアパートへスマホの地図アプリにピンを突き刺した。

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セトギワフレンズ 蚤寝晏起 @sousin_anki

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