01-1 霊媒
A-01・1
「あっ」
大学の授業を終え、奇跡的に座ることができた帰りの電車にて。私はとんでもないことを思い出し、通勤ラッシュで多くの人が乗っている電車内であるにもかかわらず、思わず声を漏らしてしまった。電車が揺れる音以外静かな車内では妙に響いてしまい、数人の乗客から怪訝そうな視線を寄越される。
居たたまれない気持ちを抱えながらも、私は慌てて膝に載せていたカバンからタブレットPCを取り出した。明日は必修科目のレポート提出日だった。リマインドをしないタイプの教授の授業なので、すっかり失念していた。
――授業中にある程度内職して進めておいてよかった。じゃなきゃ到底間に合わなかった。
課されたレポートは中世期の日本文学を読んで、その内容の分析を行え、というものだった。何が面倒だって、中世期の日本文学は、きっちりした現代語訳のあるものがあまりないどころか、楷書体に翻刻されているものすら少ないところだった。当然、私達学生に読むように課されたものもそのたぐいで、私達はくずし字を翻刻するところから始めなければならなかった。期末レポートならともかく、しょっちゅうこんな課題を出されるのなら、こんな授業取らなければよかった。そう何度思ったことだろう。
電車に揺られながら、必死に文字を打ち込んでいく。とにかく規定以上の文字数を打ち込めればなんとか単位くらいはもらえるはずだ。
私の自宅は都内の大学から一本の電車で約一時間半の場所にある。帰りは当然下り電車のため、駅を経るごとに人は減っていき、電車に乗ってから一時間ほど経つ頃になると、座席にも空きが見られるようになってきた。さっきまでおじさんらの圧に物理的に押し潰されそうになっていた女子高生や、前の座席の若い男に席を譲ってもらえてないおばあさんも、きちんと席に座れている。
満員電車でカタカタとやっていたにしてはレポートの進捗もよかった。あと少しだ。結びを書けば終わる。追い詰められて一心不乱にやっていたのがよかったらしい。時間を見つければすぐにスマホをいじってしまうような、気が散らされやすい質であることは自覚があった。
提出期限は今日の二十三時五十九分までだから、焦って結びを書かなくてもいいだろう。レポートの締めと参考文献リストは家に帰ってから作ればいい。
電車の規則的な揺れに心地よさを感じていた私は、そのまま窓に頭を預けて目を閉じた。三十分くらい眠ってしまおう。
*
――ふと、目を開ける。誰かの声が聞こえた気がしたからだ。
深い闇色の水の中に沈んでいたのを、無理やり引き上げられたような覚醒だった。私は頭にまとわりつく重怠い眠気を振り払うようにかぶりを振る。
がたんごとん。相変わらず規則的に揺れている。がたんごとん。そうだ。電車の音だ。私は電車に乗っていたんだった。電車に乗っていて、目を閉じたら眠ってしまって――。
そこでようやく私は我に返った。まずい。降りなければ。今、どこの駅まで来ている?
慌てて電子掲示板を見る。古いタイプの電車であるためか駅表示がモニターではなく、すぐには「次は■■駅」と表示されない。
私は焦れて窓の外を見た。トンネルに入ってしまったからか、窓の外の景色は灰色一色であり、今の時間さえもわからない。ああいや、スマホで確認すればいいのか。
「スマホ、スマホ……あった」
私はスカートのポケットに入っていたスマホを取り出す。
時刻は十七時二十五分。私の電車に乗った時間から計算すると、最寄り駅にちょうど到着するか、乗り過ごしていたとしても一駅かそこらか、といった時刻だった。私は少しほっとして、いまだ変わらない窓の外の景色を眺める。
ふと、脳裏に疑問がよぎった。――この電車は、こんなに長いトンネルを通っていたか?
「あれ……」
しかも、この車両には、私以外の乗客が一人たりともいなかった。これはおかしい。いつもならば、私の降りる駅でも三分の一くらいは座席が埋まっているのに。
――どうなってる。
私は立ち上がって、隣の車両を見た。隣の車両にも、人の姿は見えない。死角になっている可能性も考えたが、それでも異様だ。
電車は速度を緩める気配はない。駅はまだ近くにないということだった。
「……え。あれっ?」
私はまたもそこで声を上げた。
膝の上に措いていたはずの手荷物が――カバンがなくなっていたのだ。そこに入れていたタブレットPC含めてどこにも見当たらない。
「うそ、置き引き?」
これではせっかく書いたレポートも台無しではないか。
一時間半の突貫工事だったとはいえ、せっかく書いたものがパアになったと思うとやるせない。身体の力が抜けて、私は倒れこむようにして再び座席に座った。
しかし本当に、どうして他に誰も乗客がいないのだろう。
未だに窓の外は灰色で、電子掲示板の表示も変わらない。当然のようにアナウンスもない。壊れてしまっているのだろうか。……さっきまでそんなことはなかったはずなのに。
「……、」
言いようのない不安がこみ上げてきて、私はスマホを握りしめた手に汗をかく。
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