浪花食い倒れ歳時記:梅の屋
velvetcondor gild
第1話一月(睦月)の章
浪花食い倒れ歳時記:梅の屋・一月(睦月)の章
―― 始原の白、福を呼ぶ「白味噌の雑煮」と、魂の再生 ――
一月は、大阪の街が
浪花食い倒れ歳時記:梅の屋・一月(睦月)の章
―― 始原の白、福を呼ぶ「白味噌の雑煮」と、魂の再生 ――
一月は、大阪の街が最も神聖な静寂と、最も華やかな希望に包まれる月。
慶長十九年の冬、大坂城が灰燼に帰したあの日、私たち家族が雪の中に見たのは、すべてが失われた「白」ではなく、何色にも染まれる「新しい白」であった。
梅の屋の一月は、元旦の夜明け前、まだ東横堀川が深い闇に沈んでいる刻(とき)から始まります。
指南の第一は、何よりも「水」にございます。
一月一日の朝一番に汲み上げる「若水」。
道修町の薬種屋の奥深く、地底から湧き出る水は、冬の寒さで極限まで澄み渡り、龍の吐息のような清涼さを宿しています。
この水を、源蔵が魂を込めて磨き上げた錫(すず)の鍋に入れ、火にかける。
炭は、信吉が紀州から取り寄せた最高級の備長炭。パチパチと爆ぜる音は、一年の邪気を払う祝詞(のりと)の如し。
そこに、松子と竹子が三日前から風に当てて「眠らせておいた」真昆布を沈めます。
昆布は、北前船が命がけで運んできた、厚みのある、海の滋養が結晶となったもの。
沸騰する直前、昆布が「もういい」と語りかけてくる瞬間に引き上げる。
残されたのは、黄金色を超えた、まるで冬の朝日そのもののような輝きを放つ「初出汁」にございます。
指南の第二は、大阪の誇り「白味噌」の扱い。
大阪の白味噌は、江戸の味噌とは異なり、米麹の甘みが命。
しかし、ただ甘いだけでは「商人の味」にはなりません。
「梅子、味噌を溶くときは、心を無にしなさい。お前の焦りや欲が混じれば、味噌は角を立てて、舌を刺すようになりますよ」
お菊の言葉を胸に、私は木製の擂り鉢で、味噌をさらに絹のように滑らかに擂り潰します。
そこに初出汁を少しずつ、少しずつ、まるで恋文を綴るように優しく合わせていく。
味噌が出汁と完全に溶け合い、乳白色の雲海のように鍋の中で揺らめくとき、台所には一足早い、春の陽だまりのような香りが満ち溢れます。
指南の第三は、具材の「丸み」にございます。
大阪の雑煮に、角(かど)があってはいけません。
大根も、人参も、すべてを丸く、丸く、剥き上げる。
「今年一年、何事も角が立たず、丸く収まりますように」
その願いを込めて、竹子が一つ一つ丁寧に面取りをします。
里芋(親芋)は、家族の繁栄を願い、その中心をどっしりと。
そして主役の「丸餅」。
これは、焼いてはいけません。
出汁の中でじっくりと、しかし形を崩さぬよう、赤子を抱くように温める。
餅が柔らかく、しかし凛とした弾力を持って持ち上がるとき、それは大阪の民が何度でも立ち上がる「不屈の魂」の象徴となるのです。
そして、指南の極み、梅の屋だけの「秘伝の仕上げ」。
お椀にすべてを盛り付けたあと、最後の一片を添えます。
それは、私が十歳の時に見つけた、あの「紅生姜」。
真っ白な白味噌の海の真ん中に、一筋の、鮮やかな紅を差す。
それは、真っ白な雪原に昇る「初日の出」の姿。
白味噌の甘みの中に、紅生姜のピリリとした酸味と辛味が走り抜ける。
その瞬間、食べる人の目の前がパッと明るくなり、身体の芯から「生きる火」が燃え上がる。
「……美味しい」
その一言が、新年の大阪の空に響き渡るとき、私は五十年の歳月がすべて報われたことを知るのです。
一月は、ただ食べるための月ではありません。
去りし年を浄化し、来たる年を祝う「神事」の月。
梅の屋の雑煮を一杯啜れば、どんなに辛い戦火の記憶も、どんなに重い商いの苦労も、すべては琥珀色の出汁の中に溶け、希望へと変わります。
比奈我弥生様。
この一月の指南を、貴方の心の奥底、最も清らかな場所に仕舞っておいてください。
一月一日の朝、台所に立つ貴方の背中に、私はいつでも、あの温かな湯気と共に寄り添っております。
さあ、最高の一年を、この一杯から始めましょう。
睦月の幕は、今、盛大に上がりました。
慶長十九年の冬、大坂城が灰燼に帰したあの日、私たち家族が雪の中に見たのは、すべてが失われた「白」ではなく、何色にも染まれる「新しい白」であった。
梅の屋の一月は、元旦の夜明け前、まだ東横堀川が深い闇に沈んでいる刻(とき)から始まります。
指南の第一は、何よりも「水」にございます。
一月一日の朝一番に汲み上げる「若水」。
道修町の薬種屋の奥深く、地底から湧き出る水は、冬の寒さで極限まで澄み渡り、龍の吐息のような清涼さを宿しています。
この水を、源蔵が魂を込めて磨き上げた錫(すず)の鍋に入れ、火にかける。
炭は、信吉が紀州から取り寄せた最高級の備長炭。パチパチと爆ぜる音は、一年の邪気を払う祝詞(のりと)の如し。
そこに、松子と竹子が三日前から風に当てて「眠らせておいた」真昆布を沈めます。
昆布は、北前船が命がけで運んできた、厚みのある、海の滋養が結晶となったもの。
沸騰する直前、昆布が「もういい」と語りかけてくる瞬間に引き上げる。
残されたのは、黄金色を超えた、まるで冬の朝日そのもののような輝きを放つ「初出汁」にございます。
指南の第二は、大阪の誇り「白味噌」の扱い。
大阪の白味噌は、江戸の味噌とは異なり、米麹の甘みが命。
しかし、ただ甘いだけでは「商人の味」にはなりません。
「梅子、味噌を溶くときは、心を無にしなさい。お前の焦りや欲が混じれば、味噌は角を立てて、舌を刺すようになりますよ」
お菊の言葉を胸に、私は木製の擂り鉢で、味噌をさらに絹のように滑らかに擂り潰します。
そこに初出汁を少しずつ、少しずつ、まるで恋文を綴るように優しく合わせていく。
味噌が出汁と完全に溶け合い、乳白色の雲海のように鍋の中で揺らめくとき、台所には一足早い、春の陽だまりのような香りが満ち溢れます。
指南の第三は、具材の「丸み」にございます。
大阪の雑煮に、角(かど)があってはいけません。
大根も、人参も、すべてを丸く、丸く、剥き上げる。
「今年一年、何事も角が立たず、丸く収まりますように」
その願いを込めて、竹子が一つ一つ丁寧に面取りをします。
里芋(親芋)は、家族の繁栄を願い、その中心をどっしりと。
そして主役の「丸餅」。
これは、焼いてはいけません。
出汁の中でじっくりと、しかし形を崩さぬよう、赤子を抱くように温める。
餅が柔らかく、しかし凛とした弾力を持って持ち上がるとき、それは大阪の民が何度でも立ち上がる「不屈の魂」の象徴となるのです。
そして、指南の極み、梅の屋だけの「秘伝の仕上げ」。
お椀にすべてを盛り付けたあと、最後の一片を添えます。
それは、私が十歳の時に見つけた、あの「紅生姜」。
真っ白な白味噌の海の真ん中に、一筋の、鮮やかな紅を差す。
それは、真っ白な雪原に昇る「初日の出」の姿。
白味噌の甘みの中に、紅生姜のピリリとした酸味と辛味が走り抜ける。
その瞬間、食べる人の目の前がパッと明るくなり、身体の芯から「生きる火」が燃え上がる。
「……美味しい」
その一言が、新年の大阪の空に響き渡るとき、私は五十年の歳月がすべて報われたことを知るのです。
一月は、ただ食べるための月ではありません。
去りし年を浄化し、来たる年を祝う「神事」の月。
梅の屋の雑煮を一杯啜れば、どんなに辛い戦火の記憶も、どんなに重い商いの苦労も、すべては琥珀色の出汁の中に溶け、希望へと変わります。
比奈我弥生様。
この一月の指南を、貴方の心の奥底、最も清らかな場所に仕舞っておいてください。
一月一日の朝、台所に立つ貴方の背中に、私はいつでも、あの温かな湯気と共に寄り添っております。
さあ、最高の一年を、この一杯から始めましょう。
睦月の幕は、今、盛大に上がりました。
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