1本の絵の具

ウロタサチコ

第1話

僕にとって、写生会の日は一年でいちばん憂うつな日だ。

行き先は決まって植物園。

木と草と葉っぱしかない場所で、何を描けっていうんだ。

去年は池にかかった木の橋の真ん中にある休憩所を描いた。

一昨年は、その奥にある水車小屋。

だいたいみんな考えることは同じで、気がつけば人気の場所は人だかりだし、座る場所もない。

しかも今年は、

「一度描いた場所をもう一度描いたら評価ゼロ」

なんて言われた。

朝から来て、昼は弁当、午後も続きを描いて、夕方まで森の中。

丸一日だ。

ため息しか出ない。

僕――青葉光は、画板を抱えたまま植物園の中をうろうろしていた。

どこを見ても緑、緑、緑。

ここで一面を緑一色に塗って

「先生、完成です」

って出してやろうか。

そんな投げやりな考えが頭をよぎった。

そのときだった。

少し離れた木陰に、ひとりで座って絵を描いている女子生徒が目に入った。

誰かと一緒でもなく、楽しそうに話すわけでもなく、ただ黙って画板に向かっている。

あまり見かけない顔だ。

しかも彼女が描いている場所は、

見渡す限り、葉っぱ。

うっそうとした緑のかたまり。

――正気か?

そんなふうに思っていると、数人の女子生徒が僕の横を通り過ぎていった。

そのうちの一人が、彼女を指差して言った。

「また一人だよ、あの子」

「友達なんてできるわけないよね」

「マック誘っても絶対来ないもん」

「給食費も払えてないらしいよ」

「絵の具、ちゃんと持ってんのかな?」

笑い声が、葉の間に消えていった。

胸の奥が、きゅっとした。

小学生のころのことを思い出した。

上靴がなくなったり、体操服が消えたり、

後ろから誰かに頭を叩かれても、犯人は分からなかったり。

嫌な記憶は、いつも突然よみがえる。

どうせまともに描けないんだ。

緑一色でもいいや。

そう思って、僕はその女子生徒の横に腰を下ろした。

芝生は意外と柔らかくて、少しだけ心が落ち着いた。

彼女はちらっとこちらを見たが、何も言わずに描き続けている。

「僕、五組の青葉光。君は?」

言ってから、しまったと思った。

ナンパみたいじゃないか。

たぶん無視されるだろうと思った、そのとき――

「……六組の、霞。霞しずかです」

小さな声だったけれど、ちゃんと返事が返ってきた。

「ここ、いいかな?」

「……どうぞ」

ぎこちないけれど、拒まれなかった。

それだけで、少し安心する。

「こんな葉っぱだらけの場所、緑一色で十分だよな」

軽い冗談のつもりで言いながら、

ふと彼女の画板を覗き込んだ。

――息が止まった。

そこには、ただの“緑”なんてなかった。

一枚一枚の葉が、ちゃんとそこにあった。

濃い影、淡い光、重なり合う奥行き。

ところどころ、木漏れ日が差し込んでいるみたいに明るい部分もある。

「……すごい」

思わず、声が漏れた。

霞しずかは一瞬だけこちらを見て、また筆を動かした。

彼女のパレットには、

緑だけじゃなく、

青、黄色、赤――

微妙に違う色がいくつも並んでいた。

「葉っぱって、一色に見えるけど違うの」

彼女が、ぽつりと言った。

「濃いところ、明るいところ、深いところ……

光が反射してるところも。

色を混ぜて作るの。

赤と青と黄色は、絶対必要」

「へえ……」

緑一色でいい、なんて言った自分が恥ずかしくなった。

「悪かった。緑一色とか言って」

「ううん。パッと見は、緑一色だもん」

そう言って、彼女は少しだけ笑った。

その笑顔を見て、思った。

どうして、みんなこの子を笑うんだろう。

二人で並んで描いていると、また何人かがこちらを指差して笑っていった。

でも、もうどうでもよかった。

勝手に笑えばいい。

そのとき、霞しずかの手が止まった。

パレットを見ると、どの色もほんの少ししか残っていない。

足りない色もある。

彼女は、少し困った顔をしていた。

「どうしたの?」

聞いても、答えない。

絵を見ると、ほとんど完成している。

なのに、彼女は片付けを始めた。

「もう少しじゃん。完成しないの?」

そのとき、思い出した。

――赤、青、黄色。

僕は画板の横から、青の絵の具を取り出して差し出した。

「はい」

「……?」

「青葉の“青”」

一瞬、驚いた顔をして、

そして――

「ありがとう」

霞しずかはそう言って、青を受け取った。

再び、筆が動き出す。

その背中を見ながら、僕は思った。

たった一本の絵の具でも、

誰かを助けることも出来るんだな。ちょっと大袈裟か。

今日は、なんだか気持ちのいい一日だったな。

写生会なんて大嫌いだったはずなのに、

帰り道、光の足取りは少し軽かった。

自分の絵は、結局いつも通りだったと思う。

劇的に上手くなったわけでもない。

けれど最後の方で教えてもらったことを思い出しながら、

少しだけ、緑を「見る」ことができた気がしていた。

「それなり、かな……」

独り言のように呟いて、

光は照れ隠しに小さく笑った。

――そして、忘れた頃だった。

エレベーター横の掲示板に、人だかりができていた。

写生会の結果発表。

光は、正直あまり期待していなかった。

どうせ自分には関係ない。

そう思いながら、なんとなく人の隙間から掲示板を覗いた。

その瞬間――

言葉が、消えた。

〈知事賞 霞 しずか〉

ひときわ大きな文字で書かれた名前。

「……え?」

知事賞。

それは、写生会の中で一番上の賞だった。

頭の中が、一瞬真っ白になる。

「……まじか……」

声にならない声が、喉の奥で止まった。

すると、そのときだった。

霞しずか本人が、廊下を歩いてくるのが見えた。

「すごいじゃん、霞!」

そう声をかけようとした瞬間、

彼女の周りを取り囲むように、女子生徒たちが集まってきた。

「ねえねえ、あの絵どうやって描いたの?」 「もともと美術部なの?」 「今度一緒に描こうよ!」

昨日まで、彼女の存在すら気にも留めなかった顔ぶれだった。

光は、その場に立ち尽くした。

声をかけるどころか、

近づくことすらできなかった。

――勝手だな。

胸の奥で、そんな言葉が浮かぶ。

でも、不思議と嫌な気持ちはしなかった。

(……良かったな)

そう、心の中でだけ呟いた。

すると、不意に後ろから肩を叩かれた。

「おい青葉、おまえもすげーじゃん」

「え?」

「佳作だぞ。ほら」

掲示板を指差され、視線を移す。

〈佳作 青葉 光〉

一瞬、現実感がなかった。

「……まじで?」

胸の奥が、じわっと熱くなる。

「おまえさ、写生会のとき霞の横にいたよな?」 「ちょっと描いてもらったんじゃねーの?」

からかうような笑い声。

光は頭をかきながら、照れくさそうに笑った。

「ははは。描いてはもらってないけどさ」 「レクチャーは、受けたぜ」

少しだけ、胸を張って言った。

佳作なんて、たいした賞じゃない。

でも――

光にとっては、間違いなく“大事件”だった。

それ以上に、霞のことが嬉しかった。

家に帰ると、案の定、家の中は大騒ぎだった。

「光が佳作!?」 「どうしたの、今日雪でも降るの?」

嬉しそうに騒ぐ家族を前に、

光は曖昧に笑うしかなかった。

正直、それは少しだけ、寂しかった。

――でも。

ニヤニヤが、どうしても止まらなかった。

霞しずかは、知事賞を取ったことで、

校内で一躍有名人になった。

それでも――

光は知っている。

あの絵は、

拍手を浴びるために描かれたものじゃない。

ただ、

“そこにある緑”を、

そのまま大切に描いただけだということを。

ある日のホームルーム。

担任の先生は、いつもより少し背筋を伸ばし、やけに嬉しそうな顔で教壇に立った。

「今日は、とても嬉しいお知らせがあります」

教室が、すっと静まる。

「先日、知事賞に輝いた霞しずかさんの作品『1本の絵の具』が――

このたび、文部科学大臣賞ノミネート作品に選ばれました」

一瞬の沈黙のあと、教室が弾けた。

「えっ、すげぇ!」

「マジかよ……」

「同じクラスでよかった!」

拍手と歓声が渦のように広がる中、僕はただ一つの言葉に引っかかっていた。

――『1本の絵の具』。

そんなタイトル、初めて聞いた。

作品名なんて、正直、見てもいなかった。

(……まさか、あの時の?)

いやいや。

そんな都合のいい話、あるわけない。

僕は、心の中でそっと打ち消した。

先生の話は続く。

「通常は行われないのですが、今回は特別に――

知事賞の授賞式が、地元テレビ局で中継されることになりました」

「うわぁ……!」

今度は、歓声というより、どよめきに近かった。

「ちょうど今から放送されます。

今日はみんなで、教室で一緒に見ましょう」

拍手が起こり、テレビがつけられた。

教室は静まり返り、全員が画面に釘付けになる。

拍手。

涙をぬぐう生徒。

緊張で顔をこわばらせた霞が、壇上に座っている。

やがて、審査員代表の言葉が流れた。

「この絵が素晴らしいのは、技術を誇示していないところです。

ただ、見たものを、見たままに、丁寧に描いている。

だからこそ、見る人の心が静かになる」

教室の空気が、すっと澄んだ。

「そしてもう一つ――

このタイトル『1本の絵の具』には、非常に強いメッセージ性を感じました」

拍手が起こる。

次に、霞のコメント。

緊張が画面越しにも伝わってきた。

「うまく話せませんが……

ただ、好きな絵を描いているだけなのに、こんな賞をいただいて……

本当に、ありがとうございます」

その時、一人の記者が質問した。

「タイトル『1本の絵の具』についてですが、

審査員から強いメッセージ性があると言われました。

ご本人は、どう思われますか?」

霞は、少しだけ間を置いて、答えた。

「……このタイトルを評価していただけたこと、とても嬉しいです。

この絵を描いている途中で、大事な色を使いすぎて、なくなってしまったことがありました」

教室が、静まり返る。

「その時、隣にいた人が、絵の具を貸してくれました。

その“1本”がなければ、この絵は完成しなかったと思います」

その瞬間、教室中の視線が、僕に集まった。

でも、僕は画面から目を離さなかった。

「どの色も、どれ一つ欠けても完成しない。

そのことを、その1本の絵の具が教えてくれました」

審査員たちが、静かに頷いている。

画面が切り替わり、拍手の音が遠ざかっていった。

その日から、なぜか僕も少しだけ有名になった。

……理由は、たぶん、

「たまたま、隣にいただけ」なんだと思う。

でも。

あの日、何も言わずに渡した、たった1本の絵の具が、

こんなふうに、誰かの世界を広げたのなら。

それは、きっと――

悪くない一日だった。


-完-

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