第7話 境界に立つもの
町を離れてから、しばらくは何も起きなかった。それが逆に、不自然だった。
道は続いている。舗装も悪くない。轍も新しい。人の行き来があった痕跡は、確かに残っている。それなのに、誰ともすれ違わない。追い抜くことも、追い抜かれることもない。先ほどの魔獣の群れの気配もない。
静かだ。ただの静寂ではない。余分な音だけが、削ぎ落とされていくような静けさ。
最初に消えたのは、虫の声だった。歩き始めてしばらくは、足元の草陰からかすかな羽音が聞こえていたはずだ。それが、ある瞬間を境に、ぷつりと途切れた。
次に、鳥の気配が薄れる。鳴いていないわけではない。だが、距離が一定以上、縮まらない。声が遠いまま、近づいてこない。
風は吹いている。それなのに、葉が擦れる音が、遅れて届く。世界の反応が、鈍くなっていく。
「……ねえ」
少女が、声を落として言った。
「町を出てから、変じゃない?」
「静かだな」
そう答えたが、自分でも足りないと分かっていた。静寂という言葉使うことさえ許されない空気が流れている。
「それだけじゃない」
少女は歩きながら、空を指でなぞるような仕草をする。
「距離感が、おかしい」
その言葉で、ようやく意識が追いつく。前方の木々が、近づいてこない。確実に歩いているはずなのに、景色の更新が遅い。目には見えている。道も続いている。でも近づくことができない。
一歩踏み出す。次の一歩も、確かに出している。それでも、進んでいる実感が薄い。まるで、世界が一歩分の距離を保っているみたいだった。
「疲れてるんじゃないか?」
「……そうならいいけど」
少女は納得していない。僕もそんなことはわかっている。だが、それ以上は言わなかった。
やがて、道の雰囲気が変わった。森が、道に寄り添わなくなった。左右に広がっていたはずの木々が、ある距離で止まっている。近づいてこない。だが、遠ざかりもしない。道だけが、切り取られた帯のように続いている。
そこで、音がした。低く、短い唸り声。反射的に足が止まる。考えるより先に、体が判断していた。少女も同時だった。
右側の開けた場所に、魔獣がいた。さきほど町で感じたあの魔獣に違いない。二体、三体――いや、数えきれない。左にも、背後にも。だが、包囲ではなかった。距離が、均等すぎる。全てが、同じ半径の円周上にいる。
「……これは」
少女が息を詰める。
魔獣たちは、こちらを見ている。だが、牙を剥かない。身構えもしない。警戒はある。しかし敵意は、ない。ただ、“確認”している。
僕は剣に手をかけなかった。理由は分からない。分からないが、ここで武器を抜くのは、ひどく間違っている気がした。
一歩、前に出る。魔獣の一体が、低く唸った。威嚇ではない。返答だ。
もう一歩。空気が、変わる。重くなったわけじゃない。張り詰めたわけでもない。ただ、「ここから先」という概念が、急に明確になる。
境目。
足元には何もない。線も、印も、光も。それなのに、確実に“そこ”がある。足先が、見えない壁に触れた。触れた瞬間、理解した。
――ここは、通る場所じゃない。
拒絶ではない。排除でもない。最初から、想定されていない。無理に踏み出そうとすると、力が抜ける。体が、自分のものじゃなくなる。立っていられない。少女が、横からそっと腕を掴んだ。
「大丈夫?」
「大丈夫だ」
戻ると、圧は消えた。魔獣たちは、変わらずそこにいる。動かない。だが、こちらを見ている。
少女が、ゆっくり言う。
「囲まれてるわけじゃないのか」
「中にいるのか?」
ただ少女にそう聞いた。世界の中と外、祖父からかつて聞いたことのある言葉だ。自分で発した言葉だが何を示すのかわわからない。
しかしだが均等に並んだ魔獣を見て感じる。中と外。敵と味方。そのどちらでもない。ここにあるのは、区分だ。役割だ。魔獣たちは、守っていない。俺たちを閉じ込めてもいない。ただ、境界を保っている。目が合った魔獣の瞳は、静かだった。知性はない。だが、迷いもない。やるべきことを、最初から知っている目。でもそれが何か僕にはわからない。
「……町も、同じだった」
言葉が、自然と漏れる。
「拒まれたけど、追い出されてはいなかった」
「うん」
少女は小さく頷いた。
「ここまで、導かれた感じがする」
追われたわけじゃない。逃げたわけでもない。ただ、配置された。世界が、俺を“ここ”に置いた。
魔獣の一体が、踵を返す。次に、もう一体。森の奥へ、静かに消えていく。全てが去るわけではない。だが、監視は解かれた。境界は消えない。ただ、意識しなくなる。
「……行けるな」
「うん」
歩き出すと、森が音を取り戻した。鳥が鳴き、風が枝を揺らす。さっきまでの静寂が、嘘みたいだった。だが、分かっている。世界は、今も見ている。近づきすぎない距離から。関わりすぎない距離から。少女が、前を向いたまま言う。
「ねえ」
「ん?」
「私たち……普通じゃないね」
「今さらだな」
軽く答えたが、笑えなかった。普通じゃないのは、旅じゃない。状況でもない。彼女は私たちといったがそうではない、俺ただ一人だ。
世界が、そう判断している。敵でもない。味方でもない。扱いに困る存在。だから、距離を取る。町も。魔獣も。同じやり方で。
答えは、まだない。
だが、この旅が偶然ではないことだけは、もう、疑いようがなかった。
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