第2話 静かな道行き
山を下りてから、どれくらい歩いただろうか。
時間の感覚が、少し曖昧になっていた。太陽の位置を見れば、まだ昼を少し過ぎたくらいのはずだが、体感としてはもっと長く歩いている気がする。
背後を振り返る。山の稜線はすでに遠く、重なり合う木々は一つの影のようになっていた。
「……本当に、出てきたんだな」
感慨はあまりない。不安も、緊張もない。
ただ、静かだ。
街道は細いが、確かに人の通った跡がある。靴底で踏み固められた地面。馬車が通ったらしい轍。道の脇に積まれた小さな石。
誰かが、ここを「道」として使っている。
それなのに、人の姿は見えなかった。風が吹く。強すぎず、弱すぎず、ちょうど体を冷やす程度。
不思議なことに、風は正面から吹かない。常に、少しだけ横を抜けていく。
「……歩きやすいな」
独り言が自然と出た。
舗装されているわけでもないのに、足元は安定している。滑りそうな場所では、自然と視線が安全な石を捉える。
意識しているわけではない。考える前に、体がそう動く。昔から、そうだった。危ないと感じることはあっても、本当に危険な目に遭った記憶はほとんどない。転びそうになっても、必ず何かに掴まれる。失敗しそうになっても、なぜか致命的にはならない。
「……運がいいだけ、だよな」
そう言い聞かせる。祖父母も、そう言っていた。
しばらく歩くと、喉の渇きを覚えた。ちょうどそのとき、かすかな水音が耳に入る。
道の脇、岩の隙間から、小さな湧き水が流れていた。澄んだ水が、陽光を反射している。
「……助かる」
しゃがみ込み、手ですくって飲む。冷たく、雑味がない。
山奥の水と変わらない。疑う理由は、特に見当たらなかった。
飲み終え、立ち上がろうとしたときだった。
背後に、微かな気配。
振り返ると、草むらの影に小さな魔獣がいた。子犬ほどの大きさで、灰色の毛並み。耳が長く、尾は地面に伏せられている。
目が合う。逃げない。威嚇もしない。本来なら、警戒して距離を取るか、鳴き声を上げるはずの存在だ。
けれど、その魔獣は動かなかった。まるで、どう振る舞えばいいのか分からない相手を見るような目だ。
「……どうした?」
声をかける。当然、返事はない。
少し考え、保存食を一切れ取り出して地面に置いた。山で暮らしていた頃からの癖だ。
魔獣はすぐには近づかない。こちらと保存食を交互に見ながら、しばらく迷っている様子だった。
やがて、意を決したように一歩踏み出す。匂いを嗅ぎ、問題がないと判断したのか、ゆっくりと食べ始めた。
「……よかったな」
食べ終わるまで、特に何もせず待つ。襲われる気は、まったくしなかった。
魔獣は食べ終えると、こちらを見上げた。一瞬だけ、耳が動く。
そのまま、森の方へと戻っていった。追ってくることも、威嚇することもない。ただ、距離を保ちながら、こちらの背中を見送っている。
「……変なの」
そう呟き、再び歩き出す。
街道を進むにつれ、人の痕跡は増えていく。道標。木に刻まれた古い印。馬車が避けた跡。
それなのに、人の姿がない。
「……静かすぎる」
街道とは、人が行き交う場所だ。商人、旅人、巡回の兵。
祖父母から聞いた話では、そうだった。
だが、今は風と草の音だけがある。
ふと、空気が変わった。重くなるのではない。澄み切るような感覚だ。
音が、少しだけ遠のいた気がする。世界が、一歩引いたような――そんな錯覚。
嫌な感じはしない。むしろ、落ち着く。
それでも、背筋にわずかな違和感が走った。
「……誰か、いる?」
立ち止まり、周囲を見渡す。だが、何もいない。
鳥が一羽、低く旋回し、街道沿いの木に止まる。こちらを一度だけ見てから、羽ばたいていった。
「……気のせい、か」
自分に言い聞かせるように呟き、再び歩く。
やがて、小さな村が見えてきた。木造の家が十数軒。畑と家畜小屋。生活の匂いがする場所だ。
畑仕事をしていた老人が、こちらに気づいて顔を上げた。
「……旅の人かい?」
「はい。通りがかりです」
老人は一瞬、言葉を失ったように目を瞬かせた。
それから、深く息を吐く。
「そうか……そうか」
理由を尋ねると、老人は首を横に振った。
「いや、たいしたことじゃない。ただの偶然だろう」
だが、その声は少し硬かった。
村の中は荒れていない。家も畑も、きちんと手入れされている。それなのに、人々の表情には微かな緊張が残っていた。こちらを見る視線も、どこか戸惑っている。
宿を借りると、主人はしばらくこちらを見つめてから、ぽつりと言った。
「……今日は、よく眠れると思いますよ」
「そうなんですか?」
「ええ。理由は分かりませんが……そんな気がするんです」
夕食は素朴だったが、温かかった。野菜も肉も、新鮮だ。
外に出ると、夜空は澄み切っている。星が、やけに近い。虫の声。遠くの獣の鳴き声。すべてが、ちょうどいい距離で聞こえる。
部屋に戻り、ベッドに横になる。体はよく動いたはずなのに、嫌な疲れはない。
「……旅、悪くないな」
目を閉じながら、そう思った。
この静けさが、誰かにとっては異常だとしても。今の僕には、ただ穏やかな夜だった。それが、どんな意味を持つのかも知らずに。
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