第九話

夜。

カーテンの隙間から、月の光が細く差し込んでいる。

その淡い光の中で、神藤さんはまるで何事もなかったように、僕の部屋でパソコンを開いていた。


カタカタ、カタカタ――。

その規則的な音が、妙に心地よかった。


僕は向かいの椅子に腰を下ろして、ただその横顔を見ていた。

何度も人を救い、何度も危険に身を晒してきた手。

その指が動くたびに、現実が落ち着きを取り戻していくような気がした。



「……ずっと、休んでないですね」



そう言うと、彼は手を止め、こちらを見た。

ディスプレイの光が、薄く青みがかった瞳を淡く照らす。


「仕事だからね」


それだけを言って、また視線を画面に戻した。


まるで、命をかけたあの出来事さえも日常の一部であるかのように。

その落ち着きが、怖いくらいに静かだった。


僕はカップの中の紅茶を見つめながら、

昼間の喧騒と、いまの静けさの落差に、胸の奥がきゅうと痛くなった。


どうしてだろう。

あんなに恐ろしいことがあったのに――彼と二人きりでいるこの夜は、なぜか安心する。


「……神藤さん」


「ん?」


振り向きもせず、それでも声はやわらかかった。

まるで、僕の心のかすかな震えを見透かしているように。


その優しさに触れた瞬間、胸の奥がほどけていく。



「僕……自分のことが、わからなくなりました」



言葉が零れた瞬間、自分でも驚いた。

いつもなら、弱みをさらすくらいなら黙っていたのに。



「どうして?」



軽い調子の問いかけ。

でも、その声には突き放す冷たさがない。

柔らかい音が、耳の奥に残って離れなかった。



「……死んでもいいって思ってたのに。さっき、すごく怖かったんです」



胸の奥から、重たい何かが引きずり出される。

死を恐れないと思っていたのは嘘だった。

実際に命を狙われたとき、震えが止まらなかった。

心臓が暴れ、涙が出そうで――そんな自分が、許せなかった。


神藤さんは、変わらず穏やかに言った。



「みんな、そんなもんだよ」



あっさりした口調なのに、どうしようもなく優しかった。

その響きが、胸の奥で溶けていく。



「ばかみたいですよね。死にたいなんて言ってたくせに、いざとなったら怖いなんて……」



笑おうとしたけれど、声が震えていた。

僕はずっと、自分を“特別な人間”だと思っていたのかもしれない。

普通じゃない痛みを抱えて、普通の生き方なんてできないと思っていた。


でも――怖かった。

死にたくなかった。


その矛盾が、情けなくて仕方がなかった。


神藤さんはこちらを振り返る。

光を帯びた瞳が、まっすぐに僕を射抜いた。



「思わないよ」



その一言が、胸の奥にじんわりと広がる。

否定も、慰めもいらなかった。

ただその言葉だけで、呼吸ができるようになった。



「でも……死ぬのが怖いなら」



静かな声。

その響きに、思わず息を詰めた。



「俺がちゃんと護ってあげるから」



――瞬間、何かが弾けた。


涙がこぼれるのを、もう止められなかった。

頬を伝う熱に驚く間もなく、嗚咽が漏れる。


カタカタと響いていたキーの音がふっと止まり、椅子が引かれる音。


気づけば、神藤さんが目の前にいた。

その眼差しに捕まった瞬間、心の防波堤が崩れ落ちた。


ベッドに腰を下ろした彼の手が、僕の髪を撫でる。

ゆっくり、やさしく、まるで壊れ物を扱うように。



「……怖かったね」



低く、温かな声。

そのひとことで、張り詰めていたものが一気に解けていった。


頭を撫でられるたび、胸の奥がじんわりと熱を帯びていく。

撫でて。

もっと撫でて。

……でも、撫でないで。


相反する想いが渦を巻き、涙がとめどなくあふれた。

言葉のかわりに、泣くことしかできなかった。


神藤さんの掌が髪をすくい、背を包み込む。

その体温が、痛いほど優しかった。


――このひとに触れられると、生きたくなってしまう。


胸の奥でそう呟いたとき、涙がもう一度、頬を伝った。

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