第8章 帰還、そして暴動



 ミズガルドの空は、赤かった。


 夕焼けではない。

 焚かれた火と、流された血の色が混じっている。


 アルは走っていた。

 息が切れ、足が重くなっても、止まらなかった。


 ――遅い。

 ――それでも、行かなければならない。


 街に近づくにつれ、人の声が増えていく。

 祈りではない。怒号だ。


「嘘つきだ!」

「女神は我々を見捨てた!」

「祝福を返せ!」


 広場は、かつて訪れた村よりも酷かった。

 倒された像、破壊された祠、踏み荒らされた供物。


 その中心に――

 フレイヤがいた。


 いや、フレイヤの姿をした存在が。


 血を流しながら、それでも立っている。

 石が飛び、棒が振り下ろされても、逃げない。


「……やめろ」


 アルの声は、怒号に掻き消された。


 人々は女神を囲み、叫ぶ。


「返せ!」

「飢えているのは俺たちだ!」

「神なら、できるだろう!」


 アルは、胸の奥が焼けるように痛んだ。


 ――違う。

 ――この人は、奪っていない。

 ――それでも、すべてを背負っている。


 人波をかき分け、アルは前に出た。


「やめてください!」


 少年の声は細く、それでも確かだった。


 一瞬、空気が揺れる。


 誰かが、アルを見た。


「……あいつだ」

「林檎のガキだ」


 恐怖が走る。


 アルは、フレイヤの前に立った。


 振り返る。


 金の髪。

 血に濡れた額。

 疲れ切った目。


 ――ロキ。


 その名が、胸に落ちる。


「アル……」


 声は、ほとんど聞き取れなかった。


「来るな」


 それが、最初で最後の命令だった。


 アルは、微笑んだ。


「……ただいま」


 次の瞬間、石が飛んだ。


 避けることはできた。

 だが、しなかった。


 アルは一歩前に出て、両腕を広げた。


 衝撃。

 痛み。

 熱。


 世界が、ゆっくりと傾く。


 地面に倒れながら、アルは見た。


 人々の顔が、恐怖に変わっていく。

 血に染まった少年の身体。

 そして――布包みから、転がり落ちるもの。


 黄金の林檎。


 誰かが息を呑む。


 林檎は砕けなかった。

 地に触れた瞬間、静かに溶けるように崩れ、

 光となって、大地に染み渡っていく。


 怒号が止まる。


 風が吹き、焦げた匂いが薄れていく。


 アルは、かすかに笑った。


 ――与えないと、決めたのに。


 それでも、

 最後まで、自分だった。


 視界の端で、ロキが叫んでいる。

 何かを、必死に。


 アルは、もう聞こえなかった。


 ただ、ひとつだけ、確かな感覚がある。


 ――終わった。


 身体が、軽くなる。

 少年の姿が、溶けていく。


 名前が、静かに戻ってくる。


 ――イズン。


 だが、その名を口にする者は、もういない。


 世界は続く。

 終わりへ向かって。


 アルは、目を閉じた。


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