第5章 世界を囲むもの



 森を抜けた先で、世界は急に広くなった。


 海だった。


 灰色の空と同じ色をした水面が、果てしなく続いている。波は穏やかだが、深さが見えない。アルは思わず足を止め、息を吸った。


 塩の匂いに混じって、なぜか懐かしさがあった。


 浜辺には、人の姿はない。網は破れ、舟は横倒しになり、使われていない港のようだった。ここでも、豊穣は遠い。


 アルは岩に腰を下ろし、布包みを膝に置いた。


 胸の奥が、静かに鳴っている。


 ――ここに来るべきだった。


 理由はわからない。ただ、そう感じた。


 波打ち際で、水面が不自然に盛り上がった。


 最初は、潮のうねりかと思った。

 次の瞬間、それが生き物だと理解する。


 海が、目を開けた。


 巨大な瞳。深海の闇を宿した色。

 水の中から、鱗に覆われた巨体がゆっくりと浮かび上がる。


 ヨルムンガンド。


 名を知らなくても、それが何かはわかった。


 世界を囲む蛇。

 終わりと始まりを同時に抱くもの。


 アルは立ち上がらなかった。

 逃げもしなかった。


 ただ、そこにいた。


 《……小さい》


 声ではなかった。

 波が、思考の形をとったような響き。


「……はい」


 返事をしてから、なぜ自分が答えられたのか、不思議に思った。


 《それでも、重い》


 ヨルムンガンドの尾が、水中でゆっくりと動く。

 波が浜を撫で、アルの靴を濡らした。


 《林檎を持つ者》


 アルは視線を落とす。

 布包みは、冷たくも温かくもなかった。


「……持っているだけです」


 《知っている》


 短い答えだった。


 沈黙が続く。

 海と空の境目が、わからなくなる。


 《問おう》


 ヨルムンガンドは言った。


 《終わらせたいか》


 アルは、すぐに答えられなかった。


 村の畑。

 人々の叫び。

 雷神の言葉。

 フェンリルの鎖。


 すべてが胸の奥で絡まり合う。


「……わかりません」


 正直な答えだった。


 《ならば、始めたいか》


 アルは、目を閉じた。


 誰かの笑顔が浮かぶ。

 名前の思い出せない誰か。

 温かい手。

 長い時間。


「……それも」


 ヨルムンガンドは、わずかに身を沈めた。

 波が、大きくうねる。


 《正しい》


 アルは顔を上げた。


「正しい……?」


 《循環は、選ばれぬ》


 蛇の瞳が、遠くを見る。


 《だが、受け入れる者は選べる》


 海が、ゆっくりと引いていく。

 ヨルムンガンドの姿が、水中に溶け始める。


 《奪わぬ理由を、覚えておけ》


 最後に、それだけが残った。


 水面が静まり、何事もなかったかのように波が寄せる。


 アルは浜辺に立ち尽くした。


 布包みを抱え、深く息を吐く。


 ――終わりも、始まりも、選べない。

 ――けれど、受け入れ方は選べる。


 それが、今の自分に与えられた答えだった。


 アルは踵を返し、海を背に歩き出す。


 次に待つものが、

 優しくないことを、なぜかもう知っていた。


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