​『ペルシャの市場にて:帝国の咆哮』

velvetcondor gild

​第一話:西風(ゼピュロス)の戦慄

​『ペルシャの市場にて:帝国の咆哮』


​第一話:西風(ゼピュロス)の戦慄


​1. 終わりの始まり

​ペルシャの市場(バザール)は、今日も黄金色の陽光に包まれていた。

売り子ダネシュは、いつものように古びた書物の埃を払い、その隣でイナズがサフランの香りを振りまいている。市場の喧騒、ラクダの嘶き、物乞いたちの低い唱和。それは永遠に続くはずの、完成された楽園の調べだった。

​しかし、その平穏を切り裂いたのは、一人の男の叫びだった。

​「開け!道を開けろ!」

​市場の正門を、一頭の馬が猛然と駆け抜ける。乗り手は、西方の守備隊の鎧を纏っているが、その鉄兜は凹み、マントは血と泥にまみれていた。

「……緊急事態だ!カリフ・レザ様にお目通りを!マケドニアの軍勢が……ヘレスポントスを越えた!」

​その叫びを聞いた瞬間、市場の時計が刻む音が、ダネシュの耳には「死のカウントダウン」のように聞こえた。


​2. サイラスの直感

​市場の入り口で、旅の準備を整えていたサイラスは、その伝令の姿を凝視した。

隣に立つ斥候シャヒーンが、低い声で呟く。

「カピタン……あの馬の足取り、ただの敗走じゃねぇ。恐怖に追いつめられた獣の走りだ」

​サイラスは、手にしていた上質な絹の反物を、無造作にラクダの背に投げた。

「商売は中止だ、シャヒーン。ダネシュのところへ行け。あいつが持っている『西方の地図』と『地政学の書』をすべて買い占めろ。……金ならいくらでも出すと言え」

​「カピタン、本気か? あれはただの小競り合いかもしれねぇぜ」

​「いいや、風が違う。」

サイラスは砂漠の彼方、まだ見ぬ西の空を見つめた。

「あの伝令の瞳に映っていたのは、人間じゃない。……『嵐』そのものだ。俺たちは、これまで金を稼ぐために砂漠を越えてきたが、これからは『生き残るため』に砂漠を味方につけなきゃならねぇ」


​3. 王女の予感

​宮殿のテラスでは、王女ニルファルが、侍女インジに髪を梳かされていた。

市場から上がってくる喧騒が、いつもより刺々しく、不協和音を奏でていることに彼女は気づいていた。

​「インジ……あの音を聞いて。鳥たちが一斉に南へ飛び去っていくわ」

​「王女様、ただの季節の変わり目でございましょう」

インジは努めて明るく答えたが、その手は微かに震えていた。

​そこへ、重厚な鎧の音を響かせ、護衛官ホセインが現れた。彼は膝をつき、最敬礼の姿勢をとる。その表情は、かつてないほど険しい。

「ニルファル様。……王(カリフ)より命が下りました。本日より、市場の夜間外出を禁じ、宮殿の警備を倍にいたします。……西の覇者が、我が帝国の喉元に牙を剥きました」

​ニルファルは、胸元の睡蓮のペンダントを強く握りしめた。

「ホセイン。……戦いになるのね?」

​「……我らが勝利いたします。このペルシャの土を、異国の土足に汚させはしません」

ホセインの誓いは力強かったが、ニルファルには分かっていた。彼が握る三日月刀の柄が、あまりの緊張に白く染まっていることを。


​4. 影の始動

​市場の地下。

占い師ジャレの天幕には、蛇使いシャハブが影のように潜んでいた。

​「ジャレの婆さん。……あんたの水晶には、何が見えてる?」

​ジャレは、濁った瞳で水晶を見つめたまま、力なく首を振った。

「……火だ。……すべてを焼き尽くし、すべてを飲み込む、金色の髪をした獅子の炎だ。……シャハブ、お前の笛では、その炎は鎮められん」

​シャハブは不敵に笑い、隠し持っていた短刀を抜いた。

「笛で鎮められないなら、その喉笛を直接掻き切るまでだ。……俺は、この市場の薄暗い路地が好きでね。ここを戦火に晒すような野郎は、蛇の毒でじっくりと殺してやる」


​5. 決意の夜

​その夜。

市場の衆は、誰一人として眠りにつけなかった。

カビール率いる物乞いたちは、自分たちが磨き上げた石畳の上に座り込み、西の空を見つめていた。

イナズは、自らの店のスパイスを全て袋に詰め、地下の倉庫へと隠し始めた。

​そしてサイラスは、自らの隊員たちを前に、静かに、しかし熱く語りかけた。

「野郎ども。……これからは、荷物の代わりに武器を積め。俺たちは商人だ。損得勘定なら誰にも負けねぇ。……自分の命と、この市場の誇りを天秤にかけて、安売りするような奴はここにはいないはずだ!」

​市場の入り口には、西風が冷たく吹き抜けていた。

それは、何百年と続いた帝国の栄華が、音を立てて崩れ始める序曲だった。

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