第十三話 大坂城の“穴”を埋める

第十三話 大坂城の“穴”を埋める


——これは、わたくし曲直瀬やよいが、

「人がひとり抜ける」ということが、

どれほど大きな“穴”を城に開けるのかを知った日の記である。


---


◆ 片桐が去った翌日、城は“軽く”なった

しかしその軽さは、

春の風のような軽さではなかった。


もっと乾いていて、

もっと不安定で、

どこか“ひび割れた”ような軽さだった。


御膳所の外を行き交う足音は、

いつもより速く、荒い。


「なんや、城の中が落ち着かんわ」

「人がよう動いとる」

「昨日までと、全然違う」


やよいは、桶を抱えたまま耳を澄ませた。


(なんか……

 空気がざわざわしてる)


宗右衛門は、

火床の前で炭をいじりながら言った。


「片桐様が抜けたら、

 そらこうなるわな」


「どういうことですか?」


「柱が一本折れたら、

 家は揺れる。

 城も同じや」


やよいは、

胸の奥がざわりとした。


(柱……

 ほんまに折れてしもうたんや)


---


◆ 御膳所に届く“穴埋め”の命

昼前。

御膳所に、また紙が届いた。


お澄が開いて読み上げる。


「……“味見所の役目、

 しばらく御膳所で兼ねよ”」


「えっ……!」


お梅が声を上げる。


「味見所って、

 毒見のとこやんか!」


「せや」


お澄は、紙を折りながら言った。


「片桐様が去らはって、

 味見所の役目を担える人が、

 しばらくおらんのや」


「そんな……

 命に関わる仕事やのに……」


お市が、

珍しく声を震わせた。


宗右衛門は、

火床の前で深く息を吐いた。


「……やるしかない」


「宗右衛門様が?」


「わしだけやない。

 御膳所全員でや」


やよいは、

思わず息を呑んだ。


(毒見……

 わたしらが……?)


---


◆ 毒見の“重さ”

「やよい」


宗右衛門が、

やよいを呼んだ。


「はい」


「毒見いうんはな、

 “死ぬかもしれん”仕事や」


やよいの背筋が、

ぞくりとした。


「毒が入っとったら、

 口にした者が先に倒れる。

 それで殿下の命を守るんや」


「……死ぬかもしれんのに、

 なんで……?」


宗右衛門は、

やよいの目をまっすぐ見た。


「“誰かがやらなあかん”からや」


その言葉は、

やよいの胸に重く落ちた。


(誰かが……

 やらなあかん……)


「せやけどな、やよい」


宗右衛門は、

やよいの肩に手を置いた。


「毒見は“死ぬための仕事”やない。

 “死なんように見抜く仕事”や」


「見抜く……?」


「匂い、色、温度、

 食材の出どころ、

 季節、

 調理した者の癖。

 全部見て、

 “これはおかしい”と気づくんや」


やよいは、

胸の奥が熱くなった。


(わたし……

 できるやろか)


---


◆ 御膳所の“穴埋め”会議

その日の夕刻。

御膳所の全員が集められた。


宗右衛門、お澄、お市、与兵衛、

下働きの若い衆まで。


「ええか、みんな」


宗右衛門が、

火床の前に立った。


「片桐様が抜けた今、

 城の“口”を守るんは、

 わしらや」


「口……?」


やよいが呟くと、

お澄が説明した。


「殿下の口。

 兵の口。

 城におる者全員の口や」


「口が守られへんかったら、

 城は終わりや」


宗右衛門は、

ひとりひとりの顔を見渡した。


「毒見は、

 わしとお澄とお市でやる」


「はい」


「はい」


「……はい」


三人の声が重なる。


「やよい」


「はい」


「おまえは、

 “匂い”を見ろ」


「匂い……?」


「おまえの鼻は、

 よう利く。

 生姜のときもそうやった」


やよいは、

胸が熱くなった。


(わたしの……鼻……)


「匂いは、

 嘘つかん。

 毒が入っとったら、

 必ずどこかに“違和感”が出る」


宗右衛門は、

やよいの額を軽く叩いた。


「おまえの鼻は、

 御膳所の“目”になる」


やよいは、

ぎゅっと拳を握った。


「……はい!」


---


◆ 城の中に広がる“疑い”

その夜。

御膳所の外では、

人々の声がざわざわと響いていた。


「片桐様は裏切り者や!」

「いや、片桐様が正しかったんや!」

「淀殿の周りが怪しいで」

「徳川の間者が紛れとるらしい!」


やよいは、

桶を抱えたまま立ち止まった。


(なんで……

 こんなに人が疑い合ってるんやろ)


冬の陣のときより、

空気が重い。


血の匂いより、

もっと嫌な匂い。


“人の疑い”の匂い。


宗右衛門が、

やよいの肩に手を置いた。


「やよい。

 これが“戦の後”や」


「戦の後……?」


「刀より、

 人の心の方が、

 よっぽど危ない」


やよいは、

胸がきゅっと痛んだ。


(戦が終わっても、

 争いは終わらへん……)


---


◆ 毒見の初日

翌朝。

御膳所は、

いつもより静かだった。


「やよい、こっち」


お市が呼ぶ。


味見所の前。

小さな膳が置かれている。


「これが……

 毒見の膳……?」


「せや」


お市は、

膳の蓋をそっと開けた。


湯気が立ちのぼる。


やよいは、

鼻を近づけた。


(……匂いは、普通や)


昆布の香り。

椎茸の香り。

大根の甘い匂い。


「やよい。

 どうや」


宗右衛門が尋ねる。


「……変な匂い、しません」


「よし」


宗右衛門は、

箸を取り、

ひと口、口に運んだ。


お澄も、お市も続く。


やよいは、

息を止めて見守った。


(大丈夫……?

 大丈夫……?)


三人は、

しばらく沈黙したあと——


「……問題なし」


宗右衛門が言った。


やよいは、

胸の奥がふっと軽くなった。


(よかった……)


---


◆ しかし、城の空気は変わり続ける

毒見が終わったあと、

御膳所の外から、

またざわざわと声が聞こえてきた。


「片桐様の屋敷、

 徳川に囲まれたらしいで!」

「淀殿が激怒してはる!」

「大野治長様が動き出した!」


やよいは、

胸がざわざわした。


(片桐様……

 どうなってしまうんやろ)


宗右衛門は、

火床の前で呟いた。


「風が吹き始めたな」


「風……?」


「夏の陣の風や」


やよいは、

火の揺らぎを見つめた。


(また……

 戦が来るんやろか)


胸の奥で、

小さな火が揺れた。


---


◆ 老いたやよいの一行

——片桐且元様が去ったあの日から、

大坂城は静かに、

しかし確実に傾き始めた。


御膳所は、

その傾きを“匂い”で感じていた。


毒見の膳の湯気の向こうに、

わたくしは、

夏の陣の影を見ていたのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る