名前を読む少女
あおがね瑠璃
第1話 プロローグ
この宇宙の頂(いただき)で、
「世界を統べる者」と呼ばれる男は、
説明のつかない理不尽さに囚われていた。
彼はこの世界そのものだった。
宇宙のあらゆる法則、
時間と空間の振る舞い、
物質の生成と消滅、
そして生き物の意識に至るまで――
すべては彼を通して定義され、実行されている。
世界が動くのは、彼がそう在るからだ。
「……この状態で、まともに動けという方が無理か」
男は虚空に指先をかざし、低くつぶやいた。
その先に、星も光も存在しない。
だが彼には分かっていた。
そこには、この宇宙を構成する無数の「名前」が、
常に読み込まれ、実行され続けている。
この世界に存在するすべてのものには、名前がある。
素粒子にも、力にも、法則にも、
そして意識にも。
名前とは識別子であり、
同時に存在そのものを成立させる記述だった。
しばらく前から、彼の内部で異常が始まっていた。
彼の身体――すなわち、
この世界そのものを構成する記述の一部が、
徐々に、しかし確実に侵食されつつあったのだ。
何者かに攻撃を受けている。
それだけは疑いようがない。
だが、その正体が分からない。
世界の外部から攻撃されているのに、
自分の監視と検知の仕組みが、
それを感知できていないだけなのか。
それとも、自分の内部に長く眠っていた
「攻撃するもの」が、
今になって目を覚ましただけなのか。
どちらなのか、判断がつかなかった。
男は思考を切り替える。
原因の追及はいったん後回しにし、
まず侵食された箇所そのものを、
冷静に観察することにした。
そこでは、万物の根源である「名前」が、
まるで悪意あるプログラムに感染したかのように、
本来の記述から逸脱し、
勝手に書き換えられていた。
彼という存在を定義する、
極微の弦の振動が、
知らぬ間に異物混入した旋律へと変質している。
――強い違和感。
本来、存在してはならないノイズだった。
男は眉をひそめ、
改変された名前をひとつずつ検出し、
正しい記述へと上書きしていく。
指先の操作に合わせ、
世界の構造が静かに再構成される。
一瞬後、
侵食された領域は正常な状態へと戻った。
「……これでいい」
だが、安堵は長く続かなかった。
修復が完了した直後、
今度は別の部位が、
連鎖的に異常を示し始める。
直せば、別の場所が侵される。
隔離すれば、
さらに別の箇所に兆候が現れる。
終わりの見えない応酬だった。
「これでは……キリがないな」
男は静かに処理を止め、
思考を深める。
やがて、ひとつの結論に至った。
――攻撃は、
「自分の名前」そのものを
標的にしている。
そうであるのなら、
対処法は限られている。
「ならば、狙われている部分を
『自分ではない名前』に
差し替えておけばいいではないか」
たとえ名前を書き換えることで、
一時的な変質が生じたとしても、
それは自らが管理し、
制御下に置いた変更だ。
正体不明の侵入によって
破壊されるより、
はるかに安全だった。
嵐が過ぎ去った後で、
元の名前に戻せばいい。
男は侵食された領域を修復すると同時に、
そこを意図的に
「自分ではない名前」で覆った。
結果は即座に現れた。
偽装された名前は、
外部からの侵入も、
内部からの干渉も受け付けない。
男は同じ処置を、
自らの全領域へと拡張した。
さらに、
世界を支える重要な結節点すべてにも。
やがて、異常は完全に沈静化し、
宇宙は再び
安定した状態を取り戻す。
「……処理負荷が、想定を超えていたな」
彼は、ひどく疲れを感じていた。
それは彼にとって、
世界の運行そのものに
支障をきたしかねないほどの消耗だった。
常時続けていた
観測と判断、
再構成の連鎖を維持することが、
もはや合理的では
なくなりつつある。
彼は決断する。
世界全体を直接管理する状態から、
一時的に退くことを。
活動を最小限に落とし、
長期的な待機段階へ
移行する。
眠りに入っている間に、
再び異変が起こる可能性は
否定できない。
その備えとして、男は
活動停止直前、
いくつかの自律的な仕組みを生成した。
役割は単純だ。
世界を巡回し、
「自分の名前」に異常が見つかれば、
即座に書き換え、
拡散を防ぐこと。
「これでいい……
しばらく、任せる」
男が深い休止状態へ
移行すると同時に、
世界の各所に配置されたそれらは、
音もなく稼働を始めた。
主の判断を絶対の基準として、
疑問もためらいもなく
命令を実行する存在たち。
彼らは今日も、
宇宙のどこかで
「不要」と判断された名前を見つけ出し、
その旋律を上書きし、
消去していく。
その行為がやがて、
世界から多様な音色を奪い、
取り返しのつかない沈黙を
もたらすことになるとは――
深い休止に入った世界の主は、
まだ知る由もなかった。
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