ねーにいはネ兄と書いて、祝い
ほしわた
ねーにいはネ兄と書いて、祝い
寺子屋の帰り道、ぼくは走っていた。
土の道は朝の雨をまだ含んでいて、草履の裏にくっつく。足を上げるたび、ぺたり、ぺたりと音がした。早く帰りたかった。
「ねーにいの字はな、ネ兄って書いて、祝いって読むんだ」
先生がそう言ったとき、寺子屋の中が少しだけざわついた。字の話はいつも難しいのに、その字だけは、すとんと胸に落ちた。
ねーにいの字だ。祝いだ。
家の戸を開けると、兄はもう支度をしていた。白い襟元に指を入れ、鏡の前で髪を整えている。外の声がうるさく、三味線の音が遠くで鳴っていた。
「ねーにい」
声をかけると、兄は振り向かずに返事をした。
「なんだ」
「寺子屋でさ。ねーにいの字、教わった」
兄は一瞬だけ手を止めた。
「ほう」
「ネ兄って書いて、祝いって読むんだって」
そのとき、兄はちゃんとこちらを見た。いつもより目が細くて、でも確かに笑っていた。
「そうか。いい字だな」
それから兄は言った。
「次の芝居、主役だ。今日は祝いだな」
その言葉が、胸の中で何度も鳴った。主役。祝い。
ぼくはうなずいた。うれしくて、でも何をどうすればいいのか分からなかった。
「行ってくる」
兄はそう言って、戸を開けた。
「いってらっしゃい」と言った。
そう返すと、兄は手を上げた。
その背中を見ながら、ぼくは思った。明後日だ。祝いは、明後日だ。
夜になっても、兄は帰ってこなかった。
外はいつも通りだった。笑い声も、酒の匂いも、油の煙も、何も変わらない。ぼくの腹だけが、静かに鳴った。
戸を叩く音がして、近所のおじさんが立っていた。
「おめえのにいちゃん、今日は戻らねえってよ」
「どうして」
「なんかあったらしい。まあ、役者ってのは、そういうもんだ」
おじさんはそれだけ言って帰った。
ぼくは戸を閉めて、座った。明後日だ。祝いは、明後日だ。
朝になった。兄はいなかった。
ぼくは顔を洗い、寺子屋へ行った。字をなぞりながら、ネ兄の字をもう一度書いた。祝い。
夕方、家に戻って、外に出た。
川のほうから、少し生臭い風が来た。花が咲いていた。名前は知らない。手で折ると、汁が指についた。
夜になった。
また戸を叩く音がした。
「川下で、役者の羽織が見つかったらしい」
別の人だった。言葉はそれだけだった。
ぼくは何も言わなかった。分からなかった。ただ、明後日だと思っていた日が、もう過ぎていることだけは分かった。
それから、時間が過ぎた。
兄の三味線だけが残っていた。
名前を呼ばれるようになった。
ネ兄、と。
舞台の上は、明るい。客の声が波のように押し寄せる。拍子木が鳴り、足の裏に板の感触が伝わる。ここは、ねーにいが立っていた場所だ。
ぼくは息を吸う。
そして、心の中で言う。
「見てますか、ネ兄」
祝いは、ここにある。
ねーにいはネ兄と書いて、祝い ほしわた @hoshiwata_novel
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