第6話 母の絶望と怒り



 その時、私はリビングで洗濯物を畳んでいた。


 窓の外は雨が上がり、雲の隙間から光が差し込んでいた。

「結衣が帰ってきたら、おやつに米粉のホットケーキを焼いてあげよう」。

 そんなのどかなことを考えていた。


 静寂を切り裂いたのは、固定電話の無機質な呼び出し音だった。


 ナンバーディスプレイには「〇〇小学校」の文字。


 胸騒ぎがした。忘れ物の連絡などではない。

 もっと嫌な予感が背筋を駆け上がった。


「……はい、もしもし」


『あ、結衣さんのお母様でしょうか……! 教頭の鈴木です』


 受話器の向こうの声は、明らかに震えていた。


『落ち着いて聞いてください。先ほど、結衣さんが授業中に倒れまして……現在、救急車で市民病院へ搬送されています』


「……え?」


 言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。


『アレルギーの発作です。アナフィラキシーショックの疑いで……至急、病院へ向かってください!』


 世界が反転したようだった。


 私はどうやって家を出たのか覚えていない。

 気がつけばタクシーの後部座席で、震える手を強く握りしめていた。


「神様、お願いします。結衣を助けて」


 お弁当を持たせたはずだ。原材料も確認した。

 どこで間違った? どこに落とし穴があった?


     ◇


 病院に到着し、救急外来の受付へ走った。

 案内された処置室のドアを開けた瞬間――私は膝から崩れ落ちそうになった。


「……結衣?」


 ベッドに横たわっているその子は、私の知っている結衣ではなかった。


 顔全体が赤紫に腫れ上がり、目はふさがっている。

 唇は肥大し、口からは気道を確保するための太いチューブが挿入されていた。


 細い腕には何本もの点滴が繋がれ、心電図モニターが電子音を刻んでいる。


「お母さんですね」


 白衣を着た男性医師が、厳しい表情で歩み寄ってきた。


「処置が早かったことと、エピペンが適切に使われたおかげで、なんとか峠は越えました。今は鎮静剤で眠っていますが、命に別状はありません」


 その言葉を聞いた瞬間、張り詰めていた糸が切れ、涙が溢れ出した。


 よかった。生きてる。


 私はベッドに駆け寄り、腫れ上がった結衣の手をそっと握った。

 熱い。高熱を出しているような熱さだ。


「……先生。あの子、何を食べたんですか?」


 結衣は慎重な子だ。自分から危険なものを食べるはずがない。

 医師が口を開く前に、処置室の隅にいた人物が泣き崩れるようにして進み出た。


 里見先生だった。衣服は乱れ、顔は涙でぐしゃぐしゃだった。


「お母さん……本当に、申し訳ありません……!」


 里見先生は床に手をつき、深々と頭を下げた。


「私が、もっと注意していれば……あんな馬鹿な教師に、結衣さんを任せなければ……!」


「馬鹿な教師……?」


 里見先生の言葉に、思考が止まる。

 そこに医師が、氷のように冷たい声で告げた。


「搬送時の報告によると、担任教師が『指導』と称して、給食のパンを無理やり食べさせたそうですね」


 ――え?


 耳を疑った。


 指導?

 無理やり?

 アレルギーがあると言っているのに?


「そんな……そんなこと、あるわけ……」


「事実です。結衣さんは抵抗したのに、権田先生が……」


 里見先生の慟哭が、真実であることを告げていた。


 その瞬間。


 私の心の中にあった「悲しみ」や「恐怖」が、一瞬にして蒸発した。


 代わりに湧き上がってきたのは、どす黒く、煮えたぎるようなマグマだった。


 事故じゃない。

 これは、事件だ。


 教育という名の暴力を振るい、私の大切な娘を殺そうとした人間がいる。


「……来ているんですか? その、担任は」


 私の声は、自分でも驚くほど低く、冷え切っていた。

 里見先生が顔を上げ、怯えたように頷く。


「は、はい。廊下で待機しています……」


「そうですか」


 私はゆっくりと立ち上がった。

 涙はもう止まっていた。


 許さない。絶対に。


 無知と独善で娘の命を弄んだその男に、犯した罪の重さを骨の髄まで思い知らせてやる。


 私は戦場へ向かう兵士のような足取りで、処置室のドアへと向かった。

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