第4話 運命の日の給食
その日は、朝から雨が降っていた。
湿った空気の中に、給食室から運ばれてきた甘く重たい匂いが混ざる。
今日の主食は黒糖パンだ。
給食の時間。
結衣はいつものようにランドセルから弁当袋を取り出した。
しかし、教室の空気はいつもと違っていた。
頼みの綱である養護教諭の里見先生は、午後から出張のため不在。
朝の会でそれが伝えられた時、権田先生が一瞬だけニヤリと笑ったのを、結衣は見ていた。
「……いただきます」
結衣が手を合わせ、弁当の蓋に手をかけた、その時だった。
ぬっ、と視界に大きな手が差し込まれ、弁当箱を押さえつけた。
「結衣。今日は弁当はなしだ」
顔を上げると、権田先生が立っていた。
今日は怒っていない。
むしろ、聖人のように穏やかな笑みを浮かべている。
それが余計に怖かった。
「先生、あの……」
「俺もな、昨日の夜いろいろ調べたんだよ」
権田先生は、給食のトレーから黒糖パンを一つ掴み取ると、結衣の目の前に置いた。
「『減感作療法(げんかんさりょうほう)』って知ってるか? アレルギーの物質を少しずつ食べて体を慣らす治療法だ。医者もやってる真っ当なやり方だぞ」
先生は自信満々に語る。
けれど、それは医師の厳密な管理下で行うものだ。決して、教室で目分量で行っていいものではない。
十歳の結衣にそれを否定する言葉はなかったが、本能が「食べてはいけない」と警鐘を鳴らしていた。
「でも、お母さんが、絶対だめだって……」
「お母さんは心配性なだけだ。先生を信じろ。このパンの端っこ、小指の先くらいだ。これだけで死ぬわけないだろう?」
先生の声が少し大きくなる。
クラスのみんなが箸を止め、こちらを見ている。
「ほら、口を開けて。先生が見ててやるから」
権田先生が、ちぎったパンの欠片を、結衣の唇に押し当てた。
黒糖の甘い匂いが、鼻の奥を刺激する。
食べなければ、この時間は終わらない。先生は許してくれない。
結衣の目から涙がこぼれた。
(ごめんなさい、お母さん……)
結衣は震えながら口を開け、その小さな欠片を受け入れた。
飲み込む瞬間、喉が焼けるように熱く感じた。
「――よし! 飲み込んだな!」
権田先生が手を叩いて大声を上げた。
「ほら見ろ! なんともないじゃないか! やっぱりただの食わず嫌い、思い込みだったんだよ!」
先生は満面の笑みで、まるで偉業を成し遂げたかのように結衣の頭を撫で回した。
クラスからもまばらな拍手が起こる。
結衣は青ざめた顔で、曖昧に笑うしかなかった。
直後、体には目立った変化は現れなかった。
権田先生は上機嫌で自分の席に戻っていった。
けれど。
異変は、静かに、しかし確実に体内で進行していた。
昼休みに入り、みんなが遊び始めた頃。
結衣は机に突っ伏していた。
(喉が、イガイガする……)
首筋を掻くと、熱を持ったミミズ腫れのようなものが指に触れた。
息を吸おうとしても、空気が細いストローを通るようにしか入ってこない。
ヒュー、ヒュー。
という音が、自分の喉の奥から鳴り始めていた。
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