第3話 危うい兆候



 四時間目のチャイムが鳴り、給食当番が配膳を始めると、教室の中に香ばしい匂いが充満し始めた。


 今日のメニューは、コッペパンとクリームシチュー。


 クラスメイトにとっては食欲をそそる香りでも、結衣にとっては警戒すべき「危険な空気」だった。


 結衣は息を潜めるようにして、持参した弁当箱の蓋を開けた。

 母が早起きして作ってくれた、米粉パンと、米粉の衣で揚げた唐揚げ。


 見た目はみんなと変わらないけれど、安全な食事。

 それを一口食べようとした時だった。


「おっ、結衣。今日の弁当も豪勢だな!」


 ドス、と机に手をつき、権田先生が顔を近づけてきた。


 近い。圧迫感に結衣の手が止まる。


「唐揚げか。……おい結衣、お前『揚げ物』は食えるんだな?」


「え? あ、はい。これは米粉を使ってて……」


「粉は粉だろ?」


 権田先生はニヤリと笑った。

 彼の中で、何か勝手な理屈が繋がったようだった。


「いいか結衣。唐揚げが食えるってことは、お前の体は油も粉も受け付けてるってことだ。だったら、給食のコロッケやフライだって、中身は同じようなもんだろうが」


「ち、違います。小麦が入っていると……」


「それが『思い込み』だって言ってるんだよ」


 先生の声が大きくなり、クラスの生徒たちが一斉にこちらを見た。

 注目が集まる中、権田先生は演説でもぶつように両手を広げた。


「みんな、聞いてくれ。結衣はな、本当はみんなと同じものが食べられるはずなんだ。でも、ちょっと心が弱くて、最初の一歩が踏み出せないだけなんだよな?」


 違う。

 そう言いたいのに、喉が張り付いて声が出ない。


 クラスメイトたちは、先生の勢いに飲まれ、なんとなく「そうなんだ」「結衣ちゃん、頑張ればいいのに」という空気になり始めていた。


 先生は満足げに頷き、結衣の肩を強く叩いた。


「アレルギーなんていう難しい名前がついてるから怖いんだ。好き嫌いと一緒で、鼻をつまんでエイッと食えば、案外『なんだ、平気じゃん』ってなるもんだぞ。俺もピーマン克服した時はそうだった」


 そして、先生の視線が、隣の席の子のトレーにあるコッペパンに向いた。


「どうだ結衣。今日、一口だけでも――」


**「先生! 何をしているんですか!」**


 鋭い声が教室の空気を切り裂いた。


 入り口に立っていたのは、養護教諭の里見先生だった。

 彼女は普段の穏やかな様子とは一変し、鬼のような形相で早足に近づいてきた。


「え? いやあ、里見先生。ちょうど今、結衣の食わず嫌いを直そうと……」


「食わず嫌いではありません! 命に関わる疾患だと、何度言えばわかるんですか!」


 里見先生は権田先生と結衣の間に割って入り、結衣を背に隠すようにして立ちはだかった。


「食事中に余計なプレッシャーを与えないでください。万が一、発作が起きたら責任取れるんですか?」


「……チッ」


 権田先生は明らかに不機嫌そうに舌打ちをした。

 生徒たちの前で怒鳴られたことが、彼のプライドを傷つけたのだ。


「責任、責任って……過保護すぎんだよ、今の学校は。教師が生徒の成長を促して何が悪いんだ」


 ボソボソと捨て台詞を吐きながら、権田先生は教卓へと戻っていった。


 里見先生は振り返り、震えている結衣の目線に合わせてしゃがみ込んだ。


「結衣さん、大丈夫? 怖かったわね」


「う、うん……」


「安心して。先生がちゃんと見ているから。……でも、もし次にああいうことを言われたら、すぐに逃げて保健室に来なさい。いいわね?」


 結衣はコクリと頷いた。

 けれど、里見先生はずっと教室にいられるわけではない。


 教卓に戻った権田先生が、パンを乱暴にかじりながら、こちらを睨んでいるのが見えた。

 その目は反省しているようには見えなかった。


 むしろ、**「俺が正しいことを証明してやる」**という、歪んだ執念のような光が宿っていた。


 ――Xデーは、明日に迫っていた。


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