第10話 人形たちの微笑みと、静かな終章


 あの日から、一週間が過ぎた。


 東京のマンションに戻った私のスマートフォンが、短く振動した。

 銀行アプリの通知だ。


『入金:8,200,000円』


 画面に表示されたその数字は、無機質でありながら、どこか生々しい重みを持っていた。


 これは単なるお金ではない。

 義父母が守ってきた先祖代々の土地の一部。

 そして、真紀子がこれから数十年かけて支払う「自由」の対価だ。


 親戚経由の話では、真紀子の地獄は既に始まっているらしい。


 朝は五時に叩き起こされ、義父母の完璧な監視下で家事と育児、そしてパート労働に従事させられている。

 スマホは没収され、実家からは絶縁されたまま。


「……高い授業料だったわね」


 私はスマホを伏せ、作業机に向かった。


 そこには、実家から持ち帰った「彼女たち」の残骸が広げられている。

 私は白い布を手に取り、粉々になった『ジュモー・トリステ』の破片を、一つ一つ丁寧に包んでいった。


 まるで、遺骨を拾うように。


「ごめんね。守ってあげられなくて」


 声に出して語りかける。

 粉砕されたガラスの瞳が、光を反射してキラリと輝いた気がした。


「でも、あなたたちの痛みは無駄にはしなかった。だから……もう、ゆっくり休んで」


 全ての破片を箱に収め終えると、部屋の空気がふっと軽くなった。


 私は立ち上がり、部屋の奥にある飾り棚へと向かう。


 そこには、今回の賠償金の一部を使って新たに迎え入れた、一人の少女が座っていた。


 十九世紀末、フランス・ブリュ工房作。『ブリュ・ジュン』。


 透き通るようなビスクの肌に、吸い込まれそうなほど深いブルーのグラスアイ。

 以前の子とは違う、けれど同じくらい誇り高い顔をした新しい家族。


 彼女は静かに私を見つめている。

 その口元は、僅かに微笑んでいるようにも、全てを見透かしているようにも見えた。


「ようこそ。……この部屋は静かでしょ?」


 私は彼女の栗色の巻き毛を、愛おしむように指で梳(す)いた。


「ここには、騒がしい子供も、無礼な大人もいない。あるのは、あなたを愛する私と、穏やかな時間だけ」


 ドールの瞳が、窓から差し込む夕日を受けて濡れたように光る。

 それはまるで、復讐の完了を祝福してくれているかのようだ。


 私はふと、遠い空の下で、今頃皿洗いに追われ、義母に怒鳴られているであろう従姉妹の姿を想像した。


 涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして、「こんなはずじゃなかった」と嘆いている姿を。


 自然と、口角が吊り上がる。


 私は新しいドールと同じ、美しい微笑みを浮かべて、虚空に向かって短く告げた。


「――どんまい」


 部屋には、静謐(せいひつ)な時が流れている。


 人形たちのガラスの瞳だけが、真実を知る証人として、いつまでも静かに輝いていた。


(了)

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『実家に預けた数百万のアンティークドールを「ガラクタ」と笑って破壊した従姉妹と甥。一万円で示談しろと迫る彼らに、正式な鑑定書(820万円)を叩きつけた結果』 品川太朗 @sinagawa

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