旅立ちの翼
水無月 碧
第1話
「きっと人は何かを得るために旅をするんだよ」
「それは満足感かもしれないし、新しい発見かもしれない。或いは、それは持ち帰ることができるような形あるものかもしれないね」
達観したようにそう語る彼女は、どこか高校生離れした雰囲気を纏っているようにも見える。
「結局、それが何かは人によるのだろうけれど、それを得たいと思うからこそ人は旅に出たがるんじゃないかな」
私も旅、したいなぁ。
彼女はどこか寂しげにそう呟いて、ふぅ、と長い息を吐くと、身体を起こしているのも億劫とばかりに再びベッドに身を預けた。
それ、あげる。
彼女が指差した抽斗の中には、一冊のノートがあった。
陽の光で色褪せた表紙が、それが随分と長い間彼女の元に有ったものだということを伝えている。
「大事なものなんじゃないの?」
「そうだね。でも、今から私が行くところには持って行けないからさ」
まあ、どうするかは君に任せるよ。
そう言った彼女は、話は終わりだとばかりに私に背を向け、布団に包まった。
彼女と言葉を交わしたのはこれが最後。
旅がどうだと、そんなことを話したきっかけは思い出せない。
けれども何故だかそんな会話をしたと、そのことを思い出したのはそれから暫く後のことになる。
理由は単純。過去を振り返る余裕もないほどに、当時の私は不安定だったから。
その環境も、心も。
私を取り巻く環境は、その後直ぐに一変した。
毎夜繰り返される両親の喧嘩。そのきっかけは、ほんの些細なことだった筈なのに。
拗れに拗れた関係は、いつの間にか取り返しがつかない程の溝を作り出す。
壊れた絆は一切の修復の兆候さえも見せぬまま、まるでそれが予定調和であったかのように速やかに離婚は成された。
母に引き取られ、それに伴い引っ越すことになって。
そんな中、彼女が旅立った事を友人伝いに聞かされた。
あの世、幽世、常世。その呼び方は様々だけれど、ともかく、私の手が届かない場所へと。
とはいえ、私は特段彼女と仲が良かったというわけじゃない。
あの時病室へ見舞いに行ったのだって、そのきっかけすら思い出せないくらいだ。
まあ、恐らくは気まぐれか、そうでなければ担任あたりに頼まれたからといったところだとは思うが。
だから、彼女の死は私の心をさして揺らすことなく、微かに感じた衝撃でさえ、やがて忙しなさの波に攫われて消えていった。
それから半年。
年の瀬も迫る頃、私は冬休みを利用して父に会うために生まれ育ったこの街へ帰ってきていた。
母は自身が父に会うこと自体は頑なに拒んだけれど、私が会いたいと言えばそれには一定の理解を示してくれた。
家に帰り、父と話して、そのままにしてくれていた自室へ向かう。
随分と慌ただしく、まるで追い出されるようにこの家を出た。
父も母も、一秒だって一緒に居たくはないと、互いが互いをそう思っていたから。
故に、持ち出すことも叶わないままこの家に残された思い出の品はそれなりにある。
父と話すこと以外にも、それらを持ち帰ることが今日ここを訪れた理由の一つだった。
部屋を漁り、在りし日に想いを馳せる。
そんな時だ。
それらの思い出の品の中に、一冊のノートを見つけたのは。私が彼女を、伊佐波翼を思い出したのは。
あの時、何となく受け取り、けれど一度も中身を確認することすらなかったノート。
見る機会はいくらでもあったはずなのに、それをしなかったのは怖かったからだ。
深く考えもせずにノートを受け取った帰り道、彼女との会話を思い返せば、それが形見分けであったようにも感じられて。
その瞬間、手の内でそのノートがずしりと重みを持ったような気がした。
その内容に目を通してしまえば何かが引き返せなくなってしまうような恐怖に駆られて、目に留まることのないよう深く抽斗の奥へと仕舞い込んだ。
慌ただしい日々の中で一度も顧みられることなく、やがて忘れ去られたそれが、こうして今目の前にある。
開こうとしたノートは、まるであの日に帰ったかのように捲る指先に重みを感じさせた。
そこに描かれていたのは物語だった。
小さな男の子が歳と経験を重ねながら、様々な国の都市や遺跡を巡る旅のお話。
それは旅行記や見聞録のようでもあり、また見方を変えれば絵本のようでもあった。
様々に移ろう世界の情景が、彼女の手によって色鮮やかに描写されている。
少年が国々を巡る様からは、瑞々しいほどの生の息吹が感じられて。
それはどこか、決して手の届くことのない彼女の憧れを投影しているようにも思えた。
その物語の最後には彼の独白が綴られている。
旅をして、歩き続けて。そうして辿り着いたのは世界の涯て。
ぼくが旅をしていたのは、きっと何かが欲しかったから。
その輪郭すら朧げで、何故それを欲していたのかすらも判然としない「何か」を探し続けて此処まで辿り着いた。
ぼくはその「何か」を手に入れることができたのか、だって?
ぼくは──
物語は、そこで終わっている。
彼は、何かを手にすることが出来たのだろうか。
その問いに対する答えは、ノートの最後に記されている。
『これを読んでいる君は、私の知っている誰かだろうか。或いは、顔も名前も知らない誰かだろうか』
そんな書き出しで始まったそれは、彼女の遺書とも呼ぶべきものだった。
この物語は、私の憧れであり、叶うことのない願いであり、この胸の裡に渦巻く昏い感情の発露でもある。
ずっと、こんなところに縛りつけられたくないと思っていた。ずっと、様々な景色を見て回りたいと望んでいた。
自分の知らない何処かには、自分の知らない何かがあるんじゃないかと、その何かを手にしたいと考え続けてきた。
「ぼく」は、何かを手にできたのだろうか。その解釈は、これを読んだ君に委ねよう。
私にはそれが分からない。
だって、私は結局最期まで「何か」を手にすることが出来なかったから。
人生は旅である。
Life is a Journey.
こんなふうに、人の一生はよく旅に例えられるけれど、では、その旅の目的とは何だろうか。
私にとってそれは、「何か」を手にすることだった。
それが何なのか、その輪郭すらも曖昧だけれど、それでも大切だと思える何かを。
ひたひたと、
それはもう、すぐそこまで迫っている。
きっと私の旅は道半ばで、何かを手にすることなく終わる。
だからこそ、この物語はそんな私の末期の抵抗でもある。
自分自身が何かを手に入れることはできずとも、せめてこれを見た誰かに少しでも「何か」を遺せれば、と。
尤も、見たこともない世界を想像だけで描いた作品だ。拙いものであることは否定できないし、自分自身納得いく内容とまでは言えない。
外に出られる機会が著しく少なかった私には、人生における経験があまりに不足しているから。
出来ることなら外に出て、想像では足りない部分を経験して、そうして胸を張って完成したと、そう言ってみたかったけれど。
どうやらそれも叶いそうにないのが残念だ。
まあ、もしも目の前の君がそんな作品でも構わないと思ってくれるのであれば、笑覧して貰えると嬉しい、かな。
最後に。
未完成と言っていいこの作品を、こんな埒もない内容の一人語りを読んでくれてありがとう。
このノートも、この物語も。
君の好きにしてくれていい。燃やすなり、忘れるなり、どうとでも。
ただ願わくば、こんな私の生きた軌跡が、ほんの僅かでも目の前の君の旅の一助となりますように。
佳い旅を。
そこで、この遺言めいた彼女の独白は終わっていた。
けれど、空白を挟んだ最後。体調の不良か、死への恐怖か。
そこには、辛うじて判別がつくかどうかという程に震えた文字で小さくこう記されていた。
私は結局何かを手にすることは出来なかった。
これから旅立つことになるその場所で、私はそれを手にすることが出来るだろうか。
改めて見てみれば、ノートに記された文字はここ以外の箇所もところどころが震えていたり、滲んだりしている。
震える文字も滲む涙も、きっと彼女が懸命に迫る死の恐怖と戦った証。
私と話している時にはおくびにも出さなかったけれど、きっと彼女は迫り来る死の恐怖に怯える普通の少女だったのだろう。
そんな普通の女の子が懸命に書いたからこそ、この物語は、彼女の独白は私の胸を打つ。
「きっと、出来るよ」
彼女の最期の想いを知ったからこそ、そうあって欲しいと希う。
関わりさえ殆どなかった私に託されたノート。
それを託したこと自体は彼女のほんの気まぐれだったのかもしれない。
それでもそんな気まぐれが、偶然が、時として人を変えることもある。
少なくとも、私は変わった。
彼女が言うところの末期の抵抗。
それは私の胸に「何か」をはっきりと刻んだから。
だからこそ。
「好きにしていいんだよね。このノートも、物語も」
人生が旅だというのなら、懸命に生きたからこそ書くことの出来たこの物語こそ、きっと彼女の旅の軌跡。
それをより深く知って、感じて。旅を重ねて、彼女が出来なかった経験をして。
「この物語が未完成だっていうのなら、私に残りを紡がせて」
途切れてしまった旅路の続きに、私の足跡を刻むことをどうか許して欲しい。
こんなことを彼女は望んだわけではないのかもしれないけれど。
彼女の歩めなかった旅の続きをその終わりまで導きたい。
そして、もしも叶うなら彼女の名で、この物語を世に出したい。
私の心を変えたように、この物語は、君の独白は、きっと名も知らぬ誰かの
さあ、旅に出よう。
これといった夢も、やりたいこともなかった私の目の前に、一本の道が拓けたような。
そんな感覚を覚えながら、私の心は目の前に広がる道に、最初の一歩を踏み出した。
旅立ちの翼 水無月 碧 @Rutie
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