真夜中の訪問者

バーニー

真夜中の訪問者

 キャスターが「史上最悪の寒波だ」と言っていたが、あながち大袈裟じゃないらしい。朝起きると、水道が凍っていた。外に出てみると、頬が割れるような冷気。獣の吐息を吹きかけられているような、本能が拒絶する世界がそこにあった。

 雪雲が近づいている。僕はスーパーに出かけると、三日分の食材を買い込んだ。

 その帰り道。

 道の中央に、黒い猫が倒れていた。喧嘩に負けたのだろうか、腹の辺りがざっくりと裂けている。滲み出した血は既に固まり、失血かそれとも寒さか、小刻みに震えていた。

 見たところ野良猫である。病院に連れて行く義理はない。とはいえ、僕は震える猫を担ぐと、車に撥ねられないよう道の端に連れて行った。羽織っていた半纏を脱ぐと、温もりの残るそれで包み込む。近くに自販機があったから、コーヒーを買い、熱を帯びたスチール缶を毛に押し当てた。

「後は好きにしなさい」

 そうして帰ったわけである。

 その夜のことだった。眠っていると、何者かによって部屋の扉が叩かれた。僕は眠気を飛ばし、身体を起こす。逸る心臓を抑えながら、恐る恐る扉に近づいた。ドアスコープはない。そっと耳を澄ませようとしたとき、憎たらしいかな、床が鳴いた。すると、また扉を叩かれた。

「もしもし」

 聴こえたのは、女の声だった。多分若いな。氷を指で弾くような、凛としたものだった。

「一晩泊めていただけませんか」

 その言葉に、僕はまた耳を澄ませていた。確かに、扉の向こうで、轟轟と風が吹いているのがわかる。雪も、夕方ごろから粒の大きいものが舞っていた。きっと今は、綿のようなものに。

 僕は首を横に振った。

「心は痛むが、ネットカフェでも頼ってくれ」

「お金はありません」

「尚更怪しい。金というのは社会的信用だ。金を求めているわけではないが、たかがネットカフェにも泊まる金すら持たない、得体の知れない人間を、僕が部屋に上げると思うか」

 そう言った時、扉の向こうで、人の気配が消えた気がした。いや、違うな。扉が叩かれた時から、このくすんだ木扉の向こうに、生きている人間特有の、生々しい気配というものを僕は覚えていない。消えたと錯覚したのは、ただ声が途切れたからであった。

 まさかバケモノの類ではないだろうな、と、僕は息を殺して、待つ。

「では、私が、『悪い人間ではない』という証明をすれば、入れていただけますか」

 また声が聞こえた。どこか安堵した僕は、思わず問う。「例えば」と。

「あなたには、危害を加えないと、誓いましょう。私はただ、夜の間、この雪と風を凌ぐことができればいいのです」

 僕は首を横に振っていた。

「口では何とでも言える。反省したと言って、同じことを繰り返す馬鹿を、僕は何度も見たことがある。僕はそういう馬鹿に裏切られてきたんだ」

 そう言うと、また凍り付くような沈黙があった。そして、扉の向こうの女が口を開く。

「信じていただけませんか」

 僕は頷いた。

「無害であると信じてほしくば、君はこれより一分以内にここを立ち去ることだ。そして、僕以外の部屋の戸を叩くと良い」

 変な話だ。僕に泊めてもらうには、僕に泊めてもらうことを諦めるのだから。

「生憎、雪はもう酷く、一寸先は白に染められております。もうここから離れることはできません」

「隣の扉を叩いてくれ。若い女が住んでいる」

「返事はありませんでした」

 僕の言葉を遮る様に、そう聴こえた。

「もう、あなたしか、頼る人はいません。どうか、入れていただけませんでしょうか」

 僕はため息をついていた。

「君が人畜無害であると主張したとして、僕が部屋にあげたとして、君が僕の寝首を搔かないと言えるのか。盗まれて惜しいものなんて無いが、そういう行為に走らないと言えるのか」

 いや、正直、可能性はゼロに近いだろう。世の中そこまで物騒であってたまるか。だが、これはあくまで常識の話。見知らぬ人間という要素は、現実的にこの僕に深淵の如く不信感を突きつけ、今にも足元を掬わんと迫っていた。

「君はきっと、悪い人じゃないんだろうな。でも悪い人かもしれない。例え、確率が一パーセントだとしても。だから、入れることはできない」

 また沈黙が訪れた。僕は唾を飲み込んで、祈る様に女が立ち去るのを待った。だが、息を継ぐ音が聴こえた。

「では、証明していただけますか。扉越しに、私が貴方に危害を加えるということを、照明できますか」

 その言葉に、僕は思わず唾を飲み込んでいた。そして、素直に頷く。

「できない」

 その通り。女が僕に無害であると証明できないように、僕も、女が有害であると証明できない。確かに、真夜中の訪問者という要素は疑うに値するが、それまでだ。暴風雪によって帰路を見失ったという言葉で説明ができた。

 この女が、部屋に上がりたくば、女は僕に危害を加えないと納得させなければならない。対して、僕がこの女を追い出したくば、僕は女が有害であると証明しなければならない。お互いの姿が見えないこの扉越しに、それは無理な話だ。

 じゃあ扉を開けるのか。ドアチェーンをして。

「もし君が、バケモノでないと、証明できるのか」

 僕は怖かった。もし扉を開けた先で、女ではない何かを目の当たりにするのが。だから、扉は閉めたまま。僕らはお互いの無害と有害を証明しなくてはならない。これはまるで、ロジカルとロジカルとが綱引きをしているようだった。

 この均衡を破るためには、どちらかが間抜けにならねばならない。

「では、逆はどうでしょうか」

 そんな言葉が聴こえた。

「私は、貴方が、良い人であることを知っています。貴方はどうでしょうか」

 僕は黙っていた。

 部屋にいるというのに、冷気というやつは、ありとあらゆる隙間から滲み出し、僕の足に食らいついていた。そこから体温を奪われ、僕は段々と、鉄の杭で刺されるかのような痛みを覚え始めた。

 部屋の中でこれなのだ、外はきっと、刀を薙ぐような風が吹いているに違いなかった。このまま一晩を明かすのか。彼女が有害か無害かなんて関係なく、翌日僕が扉を開けたならば、そこに転がっているのは凍死した肉体なのではないか。そうすればいよいよ、彼女が有害か無害かの証明ができなくなる。

 死体も、何も、それは僕の望むところではなかった。

「君の、好きな食べ物は、なんだ」

 乾いた唇から、そんな言葉が零れ落ち、床の上で跳ねた。言った後で、自分は何を言っているのだと、我に返った。

「鮭の身をほぐしたものです」

 そう答えが返ってきた。

「それが何か」

 扉の向こうの人間は、若干警戒を浮かべた声でそう言った。その小刻みに震えた声に初めて、僕は血の巡りのようなものを覚えていた。

 もう戻れない。坂道を転がる様に尋ねる。

「もし、友人が訪ねてきて、そいつが、部屋にあげてくれと言ったとする。きっと僕はあげるだろう。でも決して、僕は友人が僕に危害を加えるかもしれないという可能性を否定したわけではない」

 もしかしたら、僕は友人に襲われる。物を盗まれるかも。

「でもそうしないと言えるのは、これは、信頼という形で成り立った関係だからだろう」

 僕がこの女に対する警戒を怠ることは決してない。この女が孕む危険性も、決してゼロにはならない。だが、もし、〇・一パーセントという数字があるのならば、それは無いも同然なのではないか。

 そして、その数値を引き下げるのは。

「君のことを教えてくれ。君は一体、どんな名だ」

 見知らぬ女。せめて「未知」であることを拭うべく、僕は問うた。

「クロ、と、申します」

「随分と単調な名だ」

「私の親のような方が名付けてくださいました」

「髪の色は」

「黒でございます」

「そりゃそうだろうな。どこから来た」

「よく憶えておりません。気が付けば一人。その日の心優しい方たちに助けられながら、今に至ります」

「好きなことは」

「日の光の下を、走り回ることです」

「嫌いなことは」

「水が嫌いです」

 その瞬間、ガンッ! と、何かが倒れるような音がした。それから、撓った雨樋が、外壁を叩く音。鑢のようにざらざらとした風が、目の前の扉の先で、来訪者の身を削っているのがわかった。

「風が、酷くなってきた」

 僕は白い息を吐いてそう言った。

「雪も、強くなってきました」

 女が頷く。

 証明できない。

 女の名前が、本当にクロであることも、女が黒髪であることも証明できない。これまで苦難の人生を送ってきたことも。そもそも、この扉の向こうにいるのが、女であるかも。もしかしたら、女の声をした男かもしれない。もしかしたら、若さを偽る老婆かも。いや、人間ではないのかも。証明できない。なにも。

 でももう、身体が冷えてきた。僕は早く、布団に戻りたかったのである。

「最後に、一つ聞こう」

「なんでしょうか」

「僕と君は、何処かで会ったこと、あるだろうか」

 扉の向こうからは、こう聴こえた。

「あります」

 僕は、こくりと、頷くと、キンと冷えたドアノブに手を伸ばしていた。

 そこからの記憶がない。気が付くと、朝になっていた。

 どうやら眠っていたようだ。僕は目脂のこびり付いた瞼を押し上げ、部屋に充満する藍色の光を網膜に取り込んだ。脳が照らされて、意識がはっきりとしていく。

 これまでのことは夢だったのか、僕は使い古した布団の中に包まり、小さくなっていた。相変わらず部屋には澄んだ大気が充満していて、息を吸い込めば、胸の奥がチリチリと痛む。唇の先が、酷く乾いていた。

 酷い雪だったのがわかる。首を擡げてベランダを見ると、雪がびっちりと積もっていた。屋根のあるところでこれなのだ、外はきっと酷いものなのだろう。

 ふと、胸の中に柔らかい感触があることに気づく。てっきり、枕か何かを抱き締めているのだと思った僕は、引っ張り出そうと腕を動かした。が、指先が触れた時、まるで飴細工を愛でているかのような、尊い感情が湧きだし、僕は固まっていた。

 鼻で笑うと、胸の中のそいつを撫でる。

「お前、いつから入ってきた」

 僕の胸の中で、黒い猫が眠っていた。

        了

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真夜中の訪問者 バーニー @barnyunogarakuta

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