送別会のあとに
衣ノ揚
送別会のあとに
あと少しで日を跨ぐという時、スマホのアラームが鳴り響いて、男は慌ててソファから体を起こした。
ブランケットを端に寄せ、ソファに座り直す。開いたままにしていたパソコンの画面に目を向ける。回る矢印のアイコンをクリックすると、新曲が更新されていた。
普段なら、音源が公開されてからMVが発表されるまで一週間はかかる。しかし、今夜に限っては不自然なことではなかった。
男はその曲を聴きたいわけではなかった。パソコンをそっと閉じて、淡々と身支度を始める。
外は寒い。かいた汗さえ凍ってしまいそうなほど凍えた季節は、まだ終わらない。
コートを羽織りスリッパを履く。床に落ちていた車のキーとスマートフォンを拾い上げて、冷蔵庫に向かってペタペタと歩いた。
カーテンの隙間から、青白い夜の光が覗き込んでいる。部屋のハウスダストに反射して、汚いスポットライトができていた。
男は酒が嫌いだ。とんでもなく下戸だからだ。母も父も酒が飲めなかったから、遺伝かもしれない。酒の匂いを嗅ぐだけで、気分が悪くなるほどだった。
それにもかかわらず、定期的に缶ビールを買っていた。今夜も、予め冷やしておいたビールをコートのポケットに雑に突っ込む。
家の鍵はかけない。車を走らせる。
あの場所に向かうのは、随分と久しぶりなような気がした。
・
転ばないように、スマホのライトで住宅街の急な階段を照らしながら進む。街灯も次第に遠くなると、ひたすら暗い道を進んだ。男の足は迷うことはない。慣れたもんだった。
こんにゃくのように鈍く光る石たちの住処。その下には死者の骨が眠っている。
男の目的地――墓苑には誰もいなかった。当たり前だ。一体誰が、みんな寝静まるようなこんな時間に墓参りをするだろうか。
常人なら、真夜中の墓地など不気味に思ってもおかしくない。でも、男は何一つ恐れてはいなかった。鳥肌は、単純に寒さから来るものだった。
紺色のコートが、風にパタパタと揺れる。寒さに両腕を抱えつつ、目的の人のところへ出向いた。
「ここにくるのも、今日で30回目だ」
墓石から「久しぶり」と聞こえたような気がした。
ポケットから出した両手は、かじかんで指先が赤くなっている。震える手で墓の上にたまった枯葉を手で落とすと、男はしゃがんだ。
缶ビールのプルタブを引っ掛けて開けると、泡が勢いよく吹き出た。男は驚いて目を見開いたものの、雑に運んだからしょうがないと納得した。炭酸が冷たく染み込み、指を痛めつけている。
被葬者はかつて、「大人になったらお酒が飲みたい」と言っていた。当時未成年だった被葬者は、「宴会のふわふわした雰囲気が好きなのだ」と語った。男は、それが忘れられなかった。
だから、今日も芝台の上に缶を置く。
周りをキョロキョロと見渡し、再度誰もいないことを確認する。すると、スマホで曲を流し始めた。先程パソコンで投稿を確認した曲だ。
被葬者が好きなアーティストの新曲だった。
男にはちっとも刺さらないテクノポップ。ラブソングなのか、それ以外の何かを思った曲なのか、孤独を歌ったのか、喜びを歌ったのかも、男にはよく分からない。
それでも、指先を白い息で温めながら、最後まで耳を傾けてやるのだった。
骨になった彼に聞く耳があるなんて思ってはいない。
幽霊なんて信じていなかった。信じていたら、深夜に墓地を訪れるなんて怖いこと、できやしない。
男は分かっていた。所詮自己満足なのだと。
かつて被葬者が新曲のテザーを見る度小躍りをして、パソコンに張り付いて新曲を待っていたのと同じように、これが生きがいであるということも、ちゃんと理解していた。
「好きな歌手がいて、死ぬまでに一度はライブに行きたいんだ」
そう語る彼のために、男が何度チケット争奪戦に身を投じたか、被葬者は結局知ることができなかった。
・
窓の隙間を、ガムテープで塞ぎ、車内を密閉していく。
独特な匂いが充満する。
外の寒さが嘘のように、熱くて、次第に息苦しくなる。
新しい曲が出る夜だけ、ここに来ていた。それがもう、終わった。
もういいんだ。
これで、やっと、終わりにしてもいいんだ。
朦朧としてくる意識に、寄っていた眉間のシワもほぐれていく。男は、ハンドルにもたれかかった。
ぼやけた視界の端に、誰かの影が見えた気がした。
アイツだろうか。男は呟く。
「なあ、お前の好きな歌手、引退したよ」
ごめんな。俺のせいだ。
あの日、お前は俺のせいで。
握る指の関節が、白く浮き出るほど力んでいた。
・
10年前。
青年だった男と友人は、小さなアパートでこじんまりとした誕生日パーティをしていた。
わざわざ大きめのスーパーで購入した、子供用のシャンメリーをグラスのコップに注ぐ。甘いぶどうの匂いが部屋を包み込んだ。本物のお酒のように泡立つ炭酸に、彼らは心を踊らせた。
男が4号の小さなケーキにナイフを入れようとした時、友人が何かを思い出して、勢いよく立ち上がった。
「あ! ロウソク買い忘れた!」
男は大きな声にびっくりして包丁を落としそうになった。不注意な友人に、半分叱りつけるように言う。
「無くていいだろ、いくつだと思ってんだ……」
男は呆れたように言った。
彼らはもう高校生だった。
「はあ〜? ロウソクないと誕生日ケーキじゃないだろ、ただのケーキだろソレ」
「えぇ〜……お前変なところでこだわり強いよな」
「待ってろよ! ダッシュで買ってくるから」
友人はジャンパーのチャックを上まで締めると、男のサンダルを勝手に借りて大急ぎで出かけて行った。
急に静かになった部屋で、男は彼の帰りを待っていた。
男はケーキのフィルムについた生クリームを指で取って舐めるなどして、しばらく暇を潰していた。しかし、いつまで経っても友人は帰ってこなかった。だんだん不安な気持ちが膨らむ。
おかしい。何かあったに違いない。
コンビニは歩いて10分もかからないところにあるのに、もう一時間は経っていた。
日はどんどん傾いて、嫌な予感がした。
友人は、二度と戻ってこなかった。
トラックに撥ねられて死んだ。
ドライブレコーダーには、突然友人が飛び出してきたのが映っていたらしい。トラックの運転手さんも可哀想なものだ。
信号もない田舎だ。
坂道が多い田舎。
カーブも多いし、街灯も少なくていつも薄暗いし。
だから、しょうがない。
でも、もし、もしアイツを止めてたら。
どうでもいいから、早く食おうぜって
いつもみたいにどうでもいい話して
アイツの不明瞭でアホらしくて
聞いてるだけで笑ってしまうような将来の夢を聞いて
そしたら、そうしたらアイツは今も生きてたのかな。
口の中には今でもあの日の甘い生クリームの余韻が残っている。
その時、誰かが男の名前を呼んだ。
・
「よかった……」
車のドアが開けられ、車内の熱い空気と外の冷たい空気が混じりあう。急激に下がる温度に、現実に引き戻される感触がした。
フロントドアを開けたのは、遠い昔に何度か見たことのある顔だった。思考にモヤがかかったように、なぜか思い出すことができない。
「ずっとあなたに会いたかった」
男は事故の日から引っ越して、誰彼とも連絡を取らず、会うこともしなかった。
「墓参りに来ると、いつも身に覚えのないお酒が供えられていたから……きっとあなたが来ているんだって思った」
女は、男より一回り若く見えた。顔は、よく見れば友人によく似ていた。長いトレンチコートを身にまとい、暖かそうなチェックのマフラーを巻いている。
問い詰めるように、彼女は前のめりになってことの仔細を話す。
「缶ビールの消費期限はだいたい9ヶ月。そこからあなたがいつ頃来ていたのか推測したの。命日でもない、誕生日でもない――やっと、兄さんの好きなアーティストの新曲が出るタイミングと一緒だって気がついた。今日はあの車でずっと待機してた」
彼女は近くに止められた軽自動車を指さす。ミントグリーンの可愛らしい車だ。
男は、随分ストーカーじみた女だと感じた。同時に思い出す。そういえば友人には妹がいたということを。意識が段々と鮮明になってきた。
「……俺が明日、下手すりゃ来週に来てたら、どうするつもりだったんですか」
男の口から漏れたのは、困惑が混じった問いかけだった。彼女の推理は上等だが、あれでは男が来る細かい日時などは想定できない。
「来るまで待つつもりだったわよ、そりゃ」
――なんでそこまでして、自分に会いたかったのか、疑問だった。年下のくせにタメ口なのに腹が立たないわけではなかったけど、文句を言うことはできなかった。友人が死ぬ直前まで自分と一緒にいたことを、男は申し訳なく思っているからだ。
「あなたに渡さなければいけないものがある」
友人の妹は言った。大きなボストンバッグから取り出したのは、見覚えのあるミュージシャンのCDだった。赤いリボンが巻かれている。
「……私からじゃないわよ。兄さんから。あの日着てたジャンパーのポケットに入ってたの」
男の好きだった素朴なロックミュージシャン。パッケージに書かれた年号は一つ昔のもので、プラスチックのケースは少し黄ばんでいる。
友人が死んでから、長らく自分の好きな曲を聴いていなかった。友人と男の趣味は、いつも正反対だった。
「あなたが死ぬのはあなたの勝手だし止めない。私は、兄が渡したかったCDを、あなたに渡したかっただけ」
彼女は心残りだった仕事がひとつ終わって、肩の荷が下りたようにサッパリとした顔をしていた。淡白に「それだけ!」と言って、男に背中を向けた。二、三歩進んでから立ち止まり、結局何も言わずに走り去った。
男は拍子抜けしてしまった。
・
死んだ友人の墓参りに、酒を持っていく。
かつて友人が望んだ宴会をするのである。
男は一方的にダラダラと話をする。
友人は未成年だったが、宴会のふわふわした雰囲気は好きなのだと言っていた。
一人で墓に向かって話し続けるのが、誰も見ていないとはいえなんとも恥ずかしかった。
「CD聴いたよ。ありがとう」
もちろん、返事はない。
「ずっと忘れてたんだけど、聴いてみたらやっぱ良くてさぁ……俺、この人が最後の曲出すまで、死ねねーわ」
「だから、もう少し、待っててくれよ」
男は予約していたショートケーキを受け取り、ロウソクを立て、かつて食べられなかったケーキを思い出しながら咀嚼した。
ロウソクの本数はあの頃よりずっと多いから、ケーキは穴だらけで随分不格好だった。男は、やっと一歳歳を取れたような気がした。
送別会のあとに 衣ノ揚 @koromo-no-yogurt
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