『雨がやんだあと、爆弾は恋を思い出す』
いすず さら
雨と命令
第一章 再会 ― 雨の街で
雨が降っていた。
夜の街は、昼よりも正直だ。
濡れたアスファルトがネオンを歪ませ、ビルの輪郭を溶かしていく。
まるで、この街そのものが現実であることを諦めたみたいに。
相馬悠真は、傘もささずに歩いていた。
コンビニの白い袋が、雨を吸って少し重い。
中身は、割引シールの貼られた惣菜パンと、安い缶コーヒー。
選ぶ理由はない。
生きる理由も、似たようなものだった。
仕事を辞めてから、何ヶ月経っただろう。
日付は覚えていない。
覚える必要がないからだ。
足は自然と、決まった帰り道をなぞる。
信号の位置、看板の傷、排水溝の詰まり。
世界は相変わらず、正確だった。
――それなのに。
胸の奥が、ざわついた。
理由は分からない。
心臓が早いわけでも、息が苦しいわけでもない。
ただ、
何かを思い出しそうで、思い出せない。
「……」
相馬は立ち止まった。
雨音だけが、時間を刻む。
前方。
細い路地の入口。
使われなくなった電話ボックスの脇に――
ひとりの少女が立っていた。
黒髪は濡れて、肩に張りついている。
薄いコート一枚。
寒そうなのに、震えてはいない。
ただ、そこにいる。
それだけなのに、
相馬の視界から、世界の輪郭が一瞬消えた。
「……」
喉が鳴る。
名前が、浮かびかけて――消えない。
いや、消えないのは違う。
最初から、はっきりしている。
「……凪?」
声に出した瞬間、胸が焼けた。
少女が、こちらを向く。
その顔は――
間違えようがなかった。
昔と変わらない、少し癖のある笑い方。
夜の光を映す、大きな瞳。
でも。
その目には、懐かしさがなかった。
「……あなた、誰?」
問いは静かだった。
責めるでも、怯えるでもない。
ただ、事実を確認するような声。
相馬は、笑った。
そうするしかなかった。
「……昔の知り合い、かな」
「ふうん」
少女――凪は、少し首を傾げた。
それだけで、胸が軋む。
「変な人」
そう言って、笑う。
その笑顔が、致命的だった。
記憶と同じなのに、
記憶の中より、ずっと遠い。
雨が、二人の間を満たす。
沈黙は不自然じゃない。
夜は、もともとそういうものだ。
「……ここ、危ないよ」
相馬は言った。
「この辺、夜はあんまり良くない」
「そう?」
凪は、周囲を見回す。
「でも、雨が好きだから」
「……は?」
「音がね。世界を平等にしてくれる感じ」
相馬は、返事ができなかった。
彼女は、覚えていない。
それだけで、十分すぎるほど分かる。
――もし。
もし、あの時。
彼女が逃げられていたら。
あの場所に、行かなければ。
こんな夜が、
当たり前に存在していたのかもしれない。
「……家、あるの?」
「うん。たぶん」
「たぶん?」
「最近、よく分かんなくて」
その言葉が、引っかかった。
相馬は、無意識に距離を詰める。
「……俺のとこ、来る?」
言ってから、気づいた。
これは優しさじゃない。
後悔でもない。
確認だ。
世界が、まだ間違っているかどうか。
凪は一瞬だけ迷い、
それから、あっさり頷いた。
「いいよ。変な人だけど」
雨は止まなかった。
けれどその夜、
相馬は久しぶりに、帰り道を変えた。
それが、
すべての始まりだと知らないまま。
第二章 残滓 ― 眠れない夜
凪は、ソファで眠っていた。
相馬の部屋は狭い。
築年数の分からないアパートで、壁紙の隅が少し剥がれている。
それでも、雨風はしのげる。
彼女はコートを脱ぎ、靴を揃え、何も聞かずにそこに横になった。
眠るまで、五分もかからなかった。
相馬は、キッチンと居間の境目に立ったまま、その様子を見ていた。
生きている。
それだけで、胸が苦しくなる。
冷蔵庫の唸る音。
外を走る車の音。
遠くで鳴るサイレン。
世界は、何も変わっていない。
――なのに。
凪の存在だけが、現実感を歪ませている。
相馬は、テーブルに置いた缶コーヒーを開けた。
一口飲んで、すぐに置く。
味がしない。
視線を戻すと、凪の眉がわずかに寄っていた。
何か、夢を見ている。
「……」
呼吸が乱れる。
そして、小さな声。
「……言葉を……」
相馬の指が止まった。
「……?」
耳を澄ます。
「……次の指示を……待っています……」
心臓が、嫌な音を立てた。
聞き覚えのある言葉だ。
いや、正確には――聞きたくなかった言葉。
凪の瞼が震える。
歯が、かすかに鳴った。
「……さ――」
よく聞こえないが直感的に感じた。
「やめろ」
思わず、声が出た。
小さく、乱暴な声。
凪は反応しない。
眠ったまま、苦しそうに顔を歪める。
相馬は、距離を詰めた。
「……もう終わっただろ」
誰に言っているのか、分からない。
凪にか。
それとも、自分にか。
「……もう、誰も命令しねぇ」
その瞬間。
――パン、と。
空気が弾けた。
爆音ではない。
圧力だけが、部屋を叩いた。
テーブルが横倒しになり、
食器が床に散る。
相馬は壁に叩きつけられた。
「……っ!」
視界が白くなる。
煙。
焦げた匂い。
その中心に、凪が立っていた。
眠っていたはずの彼女が。
瞳は赤く、
皮膚の下で、光が脈打っている。
「……あなたは……敵……?」
声が、二重に響く。
凪の声と、
別の何かの声。
「やめろ……凪……!」
相馬は立ち上がろうとして、膝をつく。
腕が痺れて、力が入らない。
「私は……指示に従うだけ……」
凪の指先が、火花を散らす。
爆発の予兆。
床が、壁が、天井が――
耐えられるはずがない。
それでも、相馬は動いた。
彼女に向かって、手を伸ばす。
「……凪!」
次の瞬間。
風が、割り込んだ。
白い光が舞う。
煙を切り裂くように、
“それ”は現れた。
「……やっぱり残ってたか」
低く、落ち着いた声。
白い光を放つ天使――
詩音が宙に立っていた。
「久しぶりだね、相馬悠真」
「……お前……」
喉が、ひくりと鳴る。
「説明は後。彼女、まだ完全に自由じゃない」
詩音は、凪を見据える。
「死んでも、命令は消えないことがある。
特に――深く刻まれた命令は」
凪の身体が震える。
「……やだ……」
赤い光が、揺らぐ。
「もう……殺したくない……」
涙が、こぼれた。
爆発の火花が、涙に触れて消える。
相馬は、彼女を抱きしめた。
焦げた匂いが、鼻を刺す。
それでも、離さなかった。
「大丈夫だ……」
声が、震える。
「俺がいる……もう、命令なんか――」
「止めな」
詩音が言った。
優しい声だった。
「それ、今は逆効果だ」
相馬は、歯を食いしばる。
「……じゃあ、どうすりゃいい」
詩音は、一瞬だけ目を伏せた。
「準備がいる。
それと――覚悟」
「覚悟?」
「“命令”を壊す方法はある」
光が、わずかに強まる。
「でもね。愛でも、正義でもない。
命の代償だ」
相馬は、凪の髪を強く握った。
彼女は、まだ泣いている。
小さく、子どもみたいに。
「……俺が払う」
即答だった。
詩音は、相馬を見た。
しばらく、何も言わずに。
「……だろうね」
外で、雨が強くなった。
夜は、まだ終わらない。
第三章 解放と選択 ― 壊すために失うもの
夜は、深くなっていた。
街の灯りは遠く、
風の音だけが、高い場所を満たしている。
相馬と凪、そして詩音。
三人が立っているのは、使われなくなった高層ビルの屋上だった。
フェンスは錆び、
床にはひび割れが走っている。
「……ここでしか、できない」
詩音が言った。
光の翼を畳み、静かに歩く。
「命令の残滓は、地面に近いほど強く残る。
ここは、境界に近い」
「境界……?」
相馬が問う。
「生と死。
人と悪魔。
命令と自由」
詩音は立ち止まり、夜空を見上げた。
「全部が曖昧な場所だ」
凪は、何も言わずに空を見ていた。
風に煽られ、黒髪が揺れる。
彼女の表情は穏やかだが、
指先は、かすかに震えている。
「……私」
凪が、ぽつりと呟いた。
「また、誰かを殺しちゃう?」
相馬は、答えられなかった。
正直に言えば、分からない。
彼女は爆弾だ。
その力は、存在そのものが破壊だ。
命令が消えても、
“傷”は残る。
詩音が、代わりに口を開いた。
「可能性は、ある」
凪の肩が、びくりと跳ねる。
「でも、それは君の罪じゃない」
「……じゃあ、誰の?」
凪の声は、小さい。
詩音は答えなかった。
代わりに、光の翼を広げる。
白い光が、淡く照らし始めた。
空気が、変わる。
屋上の床に、光の線が走る。
円を描き、文字のような形を作っていく。
「始める」
詩音の声が、冷たく響いた。
「今から行うのは、呪縛の強制破棄。
命令そのものを、世界から引き剥がす」
「……どうなる?」
相馬が問う。
詩音は、初めて相馬を正面から見た。
「君は――
彼女に関する“何か”を失う」
風が、強く吹いた。
「記憶」
「感情」
「存在感」
詩音は続ける。
「どれになるかは、選べない」
相馬は、凪を見た。
彼女も、こちらを見ている。
その目には、恐怖よりも――
諦めに近いものがあった。
「……やめようか」
相馬は、言ってしまった。
凪が、目を見開く。
「え?」
「別の方法、探そう」
それは、逃げだった。
でも同時に、
彼女を失わないための、最後の抵抗でもある。
凪は、しばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと首を振る。
「……嫌」
小さく、でもはっきり。
「私、もう……命令されるの、嫌なの」
相馬は、息を呑んだ。
「それに……」
凪は、少しだけ笑った。
「忘れられるの、怖いけど。
それでも、生きたい」
その言葉が、胸を貫いた。
相馬は、詩音を見た。
「やってくれ」
詩音は、短く頷いた。
「後悔するよ。君も大切な何かを失うことになる、僕と同じように。それでもいいの?」
「もう、慣れてる」
光が、強まる。
風が渦を巻き、
凪の身体から、赤い炎が噴き出した。
「……命令……」
凪の声が、歪む。
「あの人の……命令……」
背中から、
黒いコードのようなものが伸びる。
それは、彼女の身体を縛り、
空へと引き上げようとしていた。
「凪!」
相馬が叫ぶ。
だが、声が届かない。
詩音が、言葉を紡ぐ。
「呪いの鎖よ――」
光が、世界を裂く。
「――“解”。」
爆音。
視界が、白に染まる。
相馬は、何かが胸から抜け落ちる感覚を覚えた。
痛みはない。
ただ、
大切だったはずの何かが、意味を失っていく。
「……?」
凪が、崩れ落ちる。
相馬は、反射的に抱きとめた。
軽い。
驚くほど、軽い。
「……終わったの?」
凪が、かすれた声で言う。
「ああ……」
相馬は、答えた。
彼女の瞳は、もう赤くない。
ただの、人間の色。
「やっと……自由になれたんだね」
凪は、微笑んだ。
その瞬間。
相馬の胸に、
何も起きなかった。
喜びも、安堵も、
失うことへの恐怖も。
ただ、空白。
詩音が、静かに言った。
「成功だ」
「……何を、失った?」
相馬は問う。
詩音は、少しだけ視線を逸らした。
「君が彼女を“好きだった”という感情」
相馬は、頷いた。
不思議と、納得していた。
凪は、相馬を見上げる。
「……相馬?」
名前を呼ばれても、
胸は何も反応しない。
「大丈夫だ」
相馬は、嘘のない声で言った。
「これで、お前は――」
言葉が、続かない。
何を言うべきか、分からない。
詩音が、光の翼を畳んだ。
「彼女は生きる。
それで、十分だろ」
夜が、少しずつ白み始めていた。
第四章 雨がやんだあと ― 名前のない日々
朝が来た。
夜明けは、いつも唐突だ。
世界が壊れたかどうかなんて関係なく、
空は白み、鳥は鳴く。
相馬悠真は、ベンチに座っていた。
場所は、街外れの小さな公園。
遊具は錆び、雑草が伸び放題だ。
凪は、隣にいる。
風に揺れる木の葉を眺めながら、
黙って、空を見ていた。
「……静かだね」
凪が言った。
「そうだな」
相馬は、そう返した。
それ以上の感想は、浮かばない。
昨夜のことは、覚えている。
屋上。
光。
崩れ落ちる凪。
でも、それに伴う感情が、欠けている。
大事なはずの部分だけが、
綺麗に、削り取られていた。
「ねえ」
凪が、こちらを見る。
「私、しばらく……ここで暮らしてもいいかな」
「……どこで?」
「この街」
相馬は、少し考えた。
悪くないと思った。
理由はない。
「好きにすればいい」
凪は、少しだけ笑った。
「相馬は?」
「田舎に行く」
「即答だね」
「……そうでもない」
本当は、もう決めていた。
この街に、用はない。
思い出す理由も、ない。
凪は、ベンチから立ち上がった。
「ねえ」
「ん?」
「私たち、前にも会ってた?」
その質問に、胸は動かない。
ただ、
一瞬だけ、世界が軋んだ気がした。
「……会ってたよ」
「やっぱり」
凪は、納得したように頷く。
「どんな人だった? 私は」
相馬は、答えに詰まった。
彼女が、どんな存在だったのか。
言葉にできる情報が、残っていない。
「……よく笑うやつだった」
嘘ではない。
「爆発するみたいに?」
「……そんな感じだ」
凪は、吹き出した。
「なにそれ。危ないじゃん」
相馬も、少しだけ口角を上げた。
それが、精一杯だった。
沈黙。
風が、二人の間を抜ける。
「……ありがとう」
凪が言った。
「何が?」
「助けてくれてたんでしょ。たぶん」
相馬は、首を振った。
「俺は、何もしてない」
それは、事実だ。
救った記憶も、
守った感覚も、ない。
凪は、少し困った顔をして、
それから、真剣な目で言った。
「それでも、ありがとう」
相馬は、答えなかった。
答える必要が、ない。
しばらくして、凪が言った。
「ねえ、また会おうよ」
「……偶然なら」
「約束は?」
「しない」
凪は、少し驚いてから、
それでも笑った。
「そっか。じゃあ、それでいい」
彼女は、手を振った。
相馬も、軽く手を上げる。
それだけで、別れた。
歩き出してから、
相馬は一度も振り返らなかった。
理由は分からない。
ただ、
振り返ったら、何かが壊れる気がした。
電車に揺られ、
街が遠ざかる。
窓に映る自分の顔は、
どこにでもいる男のものだった。
感情は、ある。
日常も、ある。
ただ、
名前を呼びたい衝動だけが、存在しない。
それで、いい。
それが、代償だ。
遠くで、雨雲が切れた。
街の上に、光が落ちる。
誰かが、空を見上げているかもしれない。
もう、確認する必要はなかった。
――雨は、完全にやんでいた。
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