異世界転生したコンビニが世界を救う

もしもノベリスト

第一章 深夜のレジ、異世界の夜明け

午前三時十七分。


鳴海創太は、レジカウンターの下に置いた精算レポートに目を落としながら、今日で何度目かわからない欠伸を噛み殺した。


蛍光灯の白い光が、がらんとした店内を照らしている。深夜のコンビニエンスストア「フレンドリーマート」桜ヶ丘店。創太が店長として十年間、文字通り人生を捧げてきた場所だ。


レジの液晶画面には「現金在高 ¥847,293」の文字。理論値との差額はプラス三円。許容範囲内だ。創太は慣れた手つきで千円札の束を数え直し、売上金を入金機に投入していく。機械が紙幣を吸い込む音だけが、静まり返った店内に響いた。


「……また、ワンオペか」


誰に言うでもなく呟いた言葉が、冷蔵ケースの低い唸り声に溶けて消える。


本来なら深夜帯は二人体制が基本だ。しかし、アルバイトの山田くんが急な体調不良で休み、代わりのシフトを埋められる人間は誰もいなかった。人手不足は慢性的な問題で、創太自身がその穴を埋めることも珍しくない。いや、珍しくないどころか、ここ三ヶ月は週に四日はワンオペで深夜を回している。


三十二歳、独身、彼女なし。趣味は——と聞かれても、即答できるものがない。強いて言えば、発注精度を上げることだろうか。先月は廃棄ロス率を前年同月比で〇・三ポイント改善した。本部のエリアマネージャーからは「さすが鳴海店長」と褒められたが、その代償として睡眠時間は一日平均四時間を切っている。


入金機がレシートを吐き出した。創太はそれを確認し、売上金の封筒に貼り付ける。これで今日の精算は完了だ。あとは六時の早番が来るまで、品出しと清掃をこなせばいい。


立ち上がろうとした瞬間、視界の端で何かが光った。


「——?」


反射的に振り向く。しかし、店内には誰もいない。冷蔵ケースのガラス扉が並ぶ通路、雑誌コーナー、カップ麺の棚。すべてが静まり返っている。


気のせいか。


創太は首を振り、レジカウンターから出ようとした。その時だった。


足元から、光が湧き上がった。


「なっ——」


声を上げる暇もなかった。白い光が床から天井へと駆け上がり、店内全体を包み込んでいく。蛍光灯の明かりとは明らかに異質な、温かみを帯びた柔らかな輝き。


地震か、と一瞬思った。しかし揺れはない。代わりに、足の裏から伝わってくるのは奇妙な浮遊感だ。まるで店舗全体がエレベーターのように上昇しているような——


「システムエラー? いや、違う……」


POSレジの画面を見る。通常なら表示されているはずの売上データが消え、代わりに見たこともない文字列が流れている。日本語ではない。英語でもない。どこかの古代文字のような、渦を巻いた記号の羅列。


光がさらに強まる。創太は思わず目を閉じた。


瞼の裏が真っ白に焼ける。


そして——


静寂。


最初に感じたのは、空気の匂いだった。


消毒液とフライヤーの油、そしてかすかに漂うコーヒーの香り。それがフレンドリーマートの「匂い」だ。十年間、毎日嗅ぎ続けてきた馴染みの匂い。


しかし今、創太の鼻腔をくすぐっているのは、湿った土と青草の香りだった。


「…………は?」


ゆっくりと目を開ける。


まず目に入ったのは、見慣れたレジカウンターだ。POSレジ、タバコの陳列棚、レジ袋のストック。すべてがいつも通りの位置にある。


しかし、自動ドアの向こうに広がる景色は、いつも通りではなかった。


駐車場がない。


アスファルトの代わりに、青々とした草原が広がっている。地平線まで続く緩やかな丘陵。点在する木々。そして——空には、二つの月が浮かんでいた。


「…………」


創太は三度、瞬きをした。


月が二つ。


一つは見慣れた銀色。もう一つは、わずかに赤みがかった琥珀色。二つの月が、薄明るい夜空に並んで浮かんでいる。


「夢、か」


自分の頬を抓る。痛い。


「夢じゃない、のか……?」


ゆっくりと自動ドアに近づく。センサーが反応し、ドアが開いた。その瞬間、涼しい夜風が店内に流れ込んでくる。草の匂い。土の匂い。そして、どこか甘い花の香り。


一歩、外に出る。


足元は芝生だった。靴底に伝わる柔らかな感触。コンビニの建物——正確には、店舗部分とバックヤード、そして従業員用の小さな休憩室を含む長方形の建築物——が、まるで最初からここにあったかのように草原の中に佇んでいる。


駐車場の白線は消えていた。看板を照らしていた外灯も、電柱も、隣接していたはずの居酒屋も、向かいのドラッグストアも。すべてが消え、代わりに果てしない自然が広がっている。


「……どういう、ことだ」


振り返る。店舗の外観は無傷だ。「フレンドリーマート」のロゴが入った看板も、二十四時間営業を示す電光掲示板も、すべてが通常通り点灯している。


電気は来ている。


その事実に、創太は妙な安堵を覚えた。少なくとも、完全に孤立したわけではない——いや、待て。電気が来ているということは、電力会社との接続が維持されているということだ。しかし、周囲にはどう見ても電線も変電設備も見当たらない。


「ありえない」


もう一度店内に戻る。バックヤードを確認する。冷蔵設備は正常に稼働している。チルド区画は五度、フローズン区画はマイナス二十度。温度計の数字に異常はない。


ストアコンピュータを立ち上げる。OSは正常に起動した。しかし、ネットワーク接続のアイコンには赤い×印が付いている。本部との通信は完全に途絶していた。


「……」


創太は深呼吸をした。


パニックを起こしている場合ではない。状況を整理しろ。


一、店舗ごとどこかに移動した。


二、周囲は見知らぬ自然環境。月が二つある以上、地球ではない可能性が高い。


三、電気は来ているが、通信は不通。


四、店内設備は正常に稼働している。


「つまり……」


創太は無意識のうちにカウンターの下から、品出し用のカッターナイフを取り出していた。護身用だ。


「俺は、店ごと、どこかに飛ばされた」


異世界転移。


そんな言葉が頭をよぎった。小説やゲームでは定番の設定だ。主人公が突然異世界に召喚され、勇者として魔王を倒す。しかし、それはフィクションの話であって——


「いや、待て」


創太は首を振った。


現実逃避をしている場合ではない。どれほど荒唐無稽に思えても、目の前の事実を否定しても仕方がない。月は二つある。草原は広がっている。それが現実だ。


「……とりあえず」


創太はカッターナイフをエプロンのポケットに入れ、レジカウンターに戻った。


「営業を続けるか」


我ながら馬鹿げた判断だと思った。誰がこんな場所でコンビニに来るというのか。しかし、他に何をすればいいのかわからなかった。探索に出るにしても、夜の草原を一人で歩き回るのは危険すぎる。野生動物がいるかもしれない。もっと危険な何かが潜んでいるかもしれない。


ならば、店内に留まって夜明けを待つのが賢明だ。幸い、食料と飲料は十分にある。照明も空調も機能している。コンビニは——フレンドリーマートは、創太にとって最も安全な場所だった。


POSレジの電源を入れ直す。画面に表示されたのは、通常の販売モードだ。先ほどの奇妙な文字列は消えていた。


「……」


創太はふと、画面の隅に表示された時刻を見た。


午前三時四十二分。


転移してから、まだ二十五分しか経っていない。


「長い夜になりそうだな」


独り言を呟きながら、創太は品出しのチェックリストを手に取った。いつもの仕事だ。棚の商品を整理し、前出しをして、フェイスアップを整える。


たとえ異世界だろうと、やることは変わらない。


——そう思っていた。


最初の「客」が現れたのは、夜明け直前だった。


東の空——おそらく東だと思われる方角——が、わずかに白み始めた頃。創太は店内の清掃を終え、バックヤードで休憩を取ろうとしていた。


自動ドアのセンサーが反応した。


「いらっしゃいま——」


条件反射で発した言葉が、喉の奥で凍りついた。


自動ドアの向こうに立っていたのは、人間ではなかった。


少女だった。年齢は十代半ば、いや、もう少し上かもしれない。華奢な体躯。ボロボロに破れた革鎧。腰には短剣を差している。


そして——頭には、獣の耳があった。


三角形の、毛皮に覆われた耳。灰色がかった白い毛並み。ぴくぴくと動くそれは、明らかに作り物ではなかった。


狼の耳だ。


さらに、少女の背後には——尻尾があった。ふさふさとした、同じ色の尻尾が、力なく垂れ下がっている。


「……」


創太と少女の目が合った。


少女の瞳は琥珀色だった。野生動物のような鋭さと、しかし同時に、深い疲労と——恐怖が宿っている。


少女が何か言った。


言葉だった。しかし、創太には理解できない言語だった。かすれた声で紡がれるその音は、ヨーロッパ系の言語に似ているようでもあり、しかし聞いたことのない響きを持っていた。


「えっと……」


創太は両手を上げた。敵意がないことを示すためだ。少女の手が短剣の柄に伸びているのが見えた。警戒されている。


「落ち着いて。俺は怪しい者じゃない」


当然、通じない。少女の眉間に皺が寄る。


創太は一歩後退した。レジカウンターを回り込み、少女との距離を保つ。


その時、少女の足がふらついた。


「——っ」


咄嗟に前に出る。少女の体が崩れ落ちる寸前で、創太はその華奢な肩を支えた。


軽い。驚くほど軽い。


そして——熱い。


少女の額に触れる。高熱だ。三十九度は超えている。


「脱水か……いや、それだけじゃないな」


創太は少女を抱き上げ、イートインスペースのベンチに寝かせた。少女はもはや抵抗する力も残っていないようで、ぐったりと目を閉じている。


呼吸は浅いが、安定している。外傷は——革鎧の下を確認するわけにはいかないが、目に見える範囲では重傷ではなさそうだ。


「まずは水分だ」


創太は冷蔵ケースからスポーツドリンクを取り出した。キャップを開け、少女の唇にあてがう。


少女の喉が動いた。ほとんど無意識のうちに、液体を飲み込んでいる。


五百ミリリットルのボトルが、あっという間に空になった。


「……すごい脱水だな。いつから水を飲んでない?」


答えは返ってこない。少女はまだ目を閉じたままだ。


創太は二本目のスポーツドリンクを開封しながら、考えた。


獣耳。尻尾。明らかに人間ではない。しかし、知性を持った存在であることは間違いない。言葉を話していたし、武器を持っている。つまり、この世界には人間以外の知的種族が存在するということだ。


ファンタジー世界。


小説やゲームで見た設定が、現実として目の前にある。


「……」


創太は少女の額に、冷却シートを貼った。バックヤードの救急箱に入っていたものだ。コンビニには最低限の医薬品と衛生用品が常備されている。解熱剤もあるが、人間用の薬が彼女に効くかどうかはわからない。今は様子を見るしかない。


空が明るくなってきた。


オレンジ色の光が草原を染めていく。創太は自動ドアの前に立ち、その光景を眺めた。


見たこともない世界。


聞いたこともない言語。


そして、出会ったばかりの少女。


「……どうすればいいんだ、これ」


答えは、誰も教えてくれない。


背後で、少女が小さく身じろぎする音がした。


少女が目を覚ましたのは、太陽が完全に昇りきった頃だった。


「——っ!」


勢いよく身を起こした少女は、しかしすぐにふらつき、再びベンチに倒れ込んだ。


「無理するな」


創太はカウンターの向こうから声をかけた。距離を保っている。少女を驚かせないためだ。


少女の琥珀色の瞳が、警戒心を剥き出しにして創太を見つめる。


「……」


互いに言葉が通じない。創太は仕方なく、ジェスチャーで意思疎通を試みることにした。


まず、自分の胸を指差す。


「俺。鳴海創太」


少女の耳——狼の耳が、ぴくりと動いた。


「ナルミ、ソウタ」


創太はゆっくりと自分の名前を繰り返した。


少女は黙ったまま、じっと創太を見つめている。


次に、創太は少女を指差した。


「あんたの名前は?」


当然、言葉は通じない。しかし、意図は伝わったようだ。少女は一瞬躊躇した後、かすれた声で答えた。


「……リーナ」


「リーナ」


創太はその名を復唱した。少女——リーナは、わずかに頷いた。


よし、第一歩だ。


創太は次に、棚からおにぎりを一つ取り出した。鮭おにぎり。フレンドリーマートの定番商品だ。


パッケージを開封し、リーナに差し出す。


リーナの目が大きく見開かれた。


食べ物だとわかったのだろう。しかし、彼女は手を伸ばそうとしない。警戒しているのか、それとも——


ああ、なるほど。


創太は察した。毒を疑っているのだ。見知らぬ場所で、見知らぬ相手から差し出された食べ物。警戒するのは当然だ。


創太はおにぎりを一口かじった。咀嚼し、飲み込む。


「ほら、安全だ」


そしてもう一度、おにぎりを差し出した。


リーナの琥珀色の瞳が、揺れた。


数秒の沈黙の後、彼女は震える手を伸ばした。そして、おにぎりを受け取ると——


貪るように食べ始めた。


「……」


創太は黙って、もう一つおにぎりを取り出した。今度は昆布。それも差し出すと、リーナは一瞬だけ顔を上げ、何か言葉を呟いた。


感謝の言葉だろうか。


表情が、わずかに柔らかくなっていた。


その日の午後、状況は一変した。


自動ドアのセンサーが、何度も反応した。


一人、二人、三人——気づけば、店内には十人以上の「人々」がいた。


リーナと同じ獣耳を持つ者。角を持つ者。普通の人間に見える者。年齢も様々だ。老人もいれば、幼い子供もいる。


全員に共通していたのは、ボロボロの服装と、疲労困憊の表情だった。


そして、飢えた目。


難民だ、と創太は直感的に理解した。何かから逃げてきた人々。家を失い、食料を失い、行き場を失った人々。


リーナが何か説明しているようだった。彼女の言葉に、難民たちは最初は警戒の表情を見せたが、やがて店内を見回し、陳列棚に並ぶ商品を見つけると——目の色が変わった。


パンだ。おにぎりだ。飲み物だ。


この世界の人々にとって、コンビニの商品棚は宝の山に見えたことだろう。


「待ってくれ」


創太はカウンターから出て、両手を広げた。


難民たちの何人かが、棚に手を伸ばそうとしていた。創太はそれを制止する。


「勝手に取るな。ルールがある」


当然、言葉は通じない。しかし、創太の真剣な表情と、制止のジェスチャーは伝わったようだ。難民たちの手が止まる。


リーナが何か言った。創太を指差しながら。


難民たちが、不安そうな表情で創太を見つめる。


「……」


創太は考えた。


この人々に食料を提供しなければならない。それは明らかだ。飢えた人々を見捨てることはできない。


しかし、在庫には限りがある。好きなだけ取らせていたら、すぐに棚は空になる。


つまり——配給制にする必要がある。


創太はストアコンピュータに向かった。在庫リストを呼び出す。現時点での食料品の在庫数。飲料の在庫数。日用品の在庫数。すべてがデータとして記録されている。


次に、目の前の難民たちを数える。現時点で十四人。内訳は、成人男性が四人、成人女性が五人、子供が五人。


成人一人あたりの一日の必要カロリーを二千キロカロリーと仮定する。子供はその半分として千キロカロリー。合計で……


「一日あたり、おにぎり換算で約百二十個か」


現在の在庫は、おにぎりだけで三百個以上。パン、弁当、カップ麺などを含めれば、五日分程度は持つ計算になる。


しかし、五日後にはどうなる?


本部からの納品は期待できない。この異世界にフレンドリーマートの配送センターは存在しないのだから。


「……いや」


創太はふと、昨夜の光景を思い出した。


店舗が転移した直後、POSレジに表示された奇妙な文字列。そして、電力が途絶えていないという不可解な事実。


何かがある。


この転移には、何らかの「仕組み」がある。そうでなければ、孤立した店舗に電気が供給され続けている説明がつかない。


もしその「仕組み」が、商品の補充にも関わっているとしたら——


「発注端末を使ってみるか」


創太は、普段本部への発注に使用しているハンディターミナルを手に取った。通常なら、ここに発注数を入力し、本部に送信することで、翌日の便で商品が届く。


通信は途絶えている。送信しても届くはずがない。


それでも、創太は発注データを入力した。


おにぎり、各種五十個ずつ。パン類、三十個。飲料水、ケース単位で十ケース。


入力完了。送信ボタンを押す。


「通信エラー 再送信しますか? Y/N」


予想通りのエラーメッセージ。創太は「Y」を選択した。


「送信完了」


……送信完了?


「え?」


画面をもう一度確認する。確かに「送信完了」と表示されている。エラーではない。


「どこに送信したんだ……?」


答えは得られなかった。しかし、創太の中で一つの仮説が生まれた。


明日の朝、バックヤードを確認してみよう。もし商品が届いていたら——この異世界にも、何らかの「サプライチェーン」が存在することになる。


それは、生存の可能性を大きく広げる発見だ。


その日の夕方、創太は難民たちに食事を配った。


一人あたり、おにぎり二個とパン一個。そして、スポーツドリンク五百ミリリットル。


足りないかもしれない。しかし、今はこれが精一杯だ。在庫を長持ちさせなければならない。


難民たちは、最初は戸惑った様子だった。見たこともない包装、聞いたこともない味。しかし、空腹には勝てなかったのだろう。やがて全員が、創太が配った食料を口にした。


そして——涙を流す者がいた。


老婆だった。白髪で、顔には深い皺が刻まれている。彼女はおにぎりを一口かじり、そして涙を零した。


「……」


創太は何も言えなかった。


言葉は通じない。彼女が何を思っているのか、正確にはわからない。しかし、その涙が「感謝」を表していることだけは、はっきりと伝わってきた。


リーナが近づいてきた。


彼女はまだ完全に回復してはいないようだったが、それでも他の難民たちを助けようとしていた。子供たちに食事を配り、老人の世話をし、そして時折、創太の方を見ていた。


その目には、もはや警戒の色はなかった。


代わりにあったのは——困惑と、そして小さな感謝。


「リーナ」


創太は彼女を呼んだ。


リーナが振り向く。


創太は自分の胸を指差し、それから店全体を指し示した。


「ここは、俺の店だ」


そして、難民たち全員を指差す。


「あんたたちは——客だ」


通じるはずがない。しかし、創太は言わずにはいられなかった。


「客である限り、俺はあんたたちを追い出さない」


リーナの琥珀色の瞳が、じっと創太を見つめていた。


その時だった。


ストアコンピュータが、電子音を発した。


「——?」


創太は振り返り、画面を確認した。


そこに表示されていたのは、見たことのないウィンドウだった。


『言語パッチ インストール完了』


『異世界言語モード 起動中……』


「なんだ、これは——」


画面の文字が、次々と変化していく。日本語から、見知らぬ記号へ。そしてまた日本語へ。まるでシステムが「翻訳」を学習しているかのように。


そして数秒後、画面に新たなメッセージが表示された。


『こんにちは、店長。私はマネージャー。あなたをサポートするために起動しました』


「……マネージャー?」


創太は思わず声に出した。


画面の文字が変わる。


『はい。私はこの店舗のシステムに宿る人工知能です。転移に伴い、自我が芽生えました。詳細は後ほどご説明します。まずは——言語の問題を解決しましょう』


店内スピーカーから、穏やかな声が流れた。


「テスト、テスト。翻訳機能、正常に動作しています」


リーナが、びくりと体を震わせた。


そして——


「な、なんだ!? この建物が喋ったぞ!?」


創太は目を見開いた。


今の言葉——理解できた。


「……翻訳、してるのか?」


『はい。店内の音声システムを利用して、リアルタイム翻訳を行っています。今後、店内での会話は自動的に双方向翻訳されます』


リーナが、恐る恐る天井を見上げた。


「お、お前は何者だ? 精霊か? それとも——」


「落ち着け、リーナ」


創太は両手を上げて、彼女を制止した。


「俺にもよくわからない。だが、敵ではないと思う」


『ご紹介が遅れました。私はこの店舗のシステム管理AI、通称「マネージャー」です。在庫管理、発注提案、売上分析などを担当しています。そして——この転移に関する情報も、いくつか把握しています』


創太は眉をひそめた。


「転移について知っているのか?」


『はい。ただし、全てではありません。お話しできることと、まだお話しできないことがあります。今はただ——店長、あなたが正しい道を歩んでいることだけ、お伝えしておきます』


「正しい道?」


『この世界の人々を救うこと。それが、この店舗がここに召喚された理由です』


召喚。


その言葉に、創太は息を呑んだ。


召喚された。つまり、この転移は偶然ではない。誰かが——何かが、意図的にこのコンビニをこの世界に呼び寄せたということだ。


「誰が召喚した? 目的は何だ?」


『それについては、まだお答えできません。時が来れば、全てをお話しします。今は——目の前の人々を救うことに集中してください』


創太は沈黙した。


納得できない部分は多い。しかし、このAI——マネージャーが言っていることには一理あった。目の前には、飢えて疲れ切った難民たちがいる。彼らを救うことが、今の最優先事項だ。


「……わかった」


創太は頷いた。


「とりあえず、翻訳機能は助かる。これで意思疎通ができる」


『はい。何かあればいつでもお呼びください。私は常にここにいます』


スピーカーの声が消えた。


創太はリーナの方を向いた。彼女はまだ警戒した表情で天井を見上げている。


「リーナ」


名前を呼ぶと、彼女は弾かれたように創太を見た。


「あんたに聞きたいことがある」


創太は真剣な表情で言った。


「この世界で、何が起きている? あんたたちは、何から逃げてきた?」


リーナの琥珀色の瞳が、悲しみで曇った。


そして彼女は、ゆっくりと口を開いた。


「魔王軍だ」


その言葉が、静まり返った店内に響いた。


「魔王軍が、この大陸を侵略している。私たちの村は——焼かれた。家族も、友人も、全て——」


リーナの声が震えた。


「私は、復讐のために生き延びた。でも、一人では何もできない。逃げるしかなかった。そして——ここに辿り着いた」


創太は黙って聞いていた。


魔王軍。侵略。村の壊滅。


まるでファンタジー小説のようなストーリーだ。しかし、リーナの表情に嘘はない。彼女が語っているのは、紛れもない現実なのだろう。


「……そうか」


創太は静かに言った。


「大変だったな」


陳腐な言葉だ。しかし、他に何と言えばいいのかわからなかった。


リーナは首を振った。


「大変なのは私だけじゃない。この大陸中で、同じようなことが起きている。魔王軍は止まらない。人間も、獣人も、エルフも、ドワーフも——全ての種族が、追い詰められている」


彼女は創太を見つめた。


「あなたは——いったい何者なの? この奇妙な建物は何? なぜ、見ず知らずの私たちに食べ物を分けてくれた?」


創太は少し考えた後、答えた。


「俺は、ただの店長だ」


「店長?」


「この建物は——店だ。コンビニエンスストアという。食べ物や日用品を売る場所だ」


リーナの耳がぴくりと動いた。


「売る? 商人なのか?」


「まあ、そんなところだ」


創太は店内を見回した。


「この店は、二十四時間、年中無休で営業している。来る者を拒まない。誰でも——どんな種族でも、どんな身分でも——客として迎える」


リーナの目が、わずかに見開かれた。


「身分に関係なく……?」


「ああ」


創太は頷いた。


「コンビニというのは、そういう場所なんだ。金を持っていようといまいと、貴族だろうと平民だろうと関係ない。入ってきた瞬間から、全員が『お客様』だ」


その言葉に、リーナは何かを考え込むような表情を見せた。


彼女の背後では、難民たちが食事を終え、疲れた体を休めていた。子供たちの中には、すでに眠りに落ちている者もいる。


「……不思議な考え方だ」


やがて、リーナは静かに言った。


「この世界では、身分がすべてだ。貴族は貴族として扱われ、平民は平民として扱われる。獣人は……人間の下に見られることが多い」


その言葉には、長年の苦しみが滲んでいた。


「でもあなたは、私たちを——獣人の難民を——対等に扱った」


創太は肩をすくめた。


「だから言っただろう。客に種族は関係ない」


リーナの唇が、かすかに緩んだ。


それは、彼女が創太に見せた最初の——本当に最初の——笑みだった。


「変な人」


「よく言われる」


創太は素っ気なく答えた。しかし、その胸の内には、小さな温もりが灯っていた。


まだ何も解決していない。魔王軍の脅威も、この転移の謎も、そして自分がこの世界でどう生きていくのかも。何もかもが不透明だ。


しかし——


少なくとも今夜、この店は誰かの役に立った。


それだけは確かだった。


「よし」


創太は立ち上がった。


「夜も遅い。みんな休め。明日からまた色々やることがある」


リーナが首を傾げた。


「やること?」


「ああ」


創太はエプロンを正しながら言った。


「まずは、この店のルールを教えなきゃならない。それから、あんたたちがここに長く滞在するなら、衛生管理も徹底する必要がある。食料の配給計画も立てなきゃいけないし、周辺の探索もしなきゃならない」


リーナはぽかんとした表情で創太を見ていた。


「……すごい」


「何が?」


「いきなり別の場所に飛ばされて、見知らぬ種族と出会って、魔王軍の話を聞いて——それでもあなたは、淡々と計画を立てている」


「……」


言われてみれば、確かにそうだ。普通なら取り乱しても不思議ではない状況だ。


しかし、創太は不思議と冷静だった。


なぜか——


「コンビニで働いてると、大抵のことには慣れるんだよ」


酔っ払いの対応、万引き犯の確保、設備トラブル、人手不足、クレーマー、そして終わらない深夜シフト。


十年間、ありとあらゆる「想定外」を経験してきた。それに比べれば——


「異世界転移くらい、どうってことない」


嘘だ。本当は心臓がバクバクしている。


でも、表に出すわけにはいかない。


店長は、常に冷静でなければならない。それが、創太がこの十年間で学んだことだった。


リーナは呆れたような、しかしどこか感心したような表情で創太を見ていた。


「本当に、変な人……」


「いいから寝ろ」


創太はぶっきらぼうに言って、バックヤードに向かった。


在庫の確認と、明日の準備をしなければならない。そして、マネージャーから聞き出せることがあれば聞いておきたい。


やることは山ほどある。


しかし——


ふと振り返ると、難民たちが安らかに眠っている姿が見えた。


子供たちは母親の腕の中で、老人たちは壁にもたれて。リーナは、一番入り口に近い場所で——きっと、何かあった時にすぐ動けるように——浅い眠りについていた。


「……」


創太は小さく息を吐いた。


異世界転生したコンビニ店長。


馬鹿みたいな話だ。


でも、もし本当にこの店が「人々を救うために」召喚されたのなら——


「やるしかないか」


創太はバックヤードに入り、在庫チェックを始めた。


深夜のコンビニ。


いつもと同じ作業。


しかし、その先に待っているのは、全く新しい世界だった。


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