『人を信じる力』

鈴木 優

第1話

      『人を信じる力』

                鈴木 優

 


 東京の冬は、音を吸い込む。

 

 午後五時、駅前のベンチに腰掛けた緒方は、手のひらに残るぬくもりをじっと見つめていた。

 それは、見知らぬ少年が差し出した缶コーヒーの温度だった。


『寒いですね』

 少年はそう言って、隣に腰を下ろした。

 

 中学生くらいだろうか。制服の襟元から覗くマフラーが、少しだけほつれている。


 緒方は、うなずいた。

『......ありがとう。君がくれたこれ、沁みたよ』


 少年は照れたように笑った。


『おじさん、泣いてたから』


 緒方は、目を伏せた。

 

 妻を亡くして半年。

 誰にも言えず、職場にも戻れず、ただ街を彷徨っていた。


 人を信じることが、怖くなっていた。

 優しさも、言葉も、全部、裏切られる気がして。


『君は、どうして僕に声をかけたの?』

 緒方の問いに、少年は少し考えてから言った。


『......僕も、信じたかったから』


『え?』


『この世界に、ちゃんと優しさがあるって。信じたかったんです。だから、まず自分からやってみようって思って』


 緒方は、言葉を失った。

 

 少年の目はまっすぐで、どこまでも澄んでいた。

 その瞳に映る自分が、少しだけましな人間に見えた。


『名前、聞いてもいい?』

『光太です。おじさんは?』


『......緒方。 ありがとう、光太くん』


 その日から、緒方は少しずつ変わった。

 コンビニの店員に『ありがとう』と言えるようになった。

 

 公園のベンチで、隣に座った老婦人に『寒いですね』と声をかけられるようになった。

 人の目を見て話すことが、少しずつできるようになった。


 ある日、緒方はふと思い立ち、あの駅前のベンチに向かった。

 あの少年に、もう一度会いたかった。

 礼を言いたかった。

『君のおかげで、僕はまた人を信じてみようと思えた』と。


 けれど、何日通っても、光太の姿はなかった。

 代わりに、ある日、ベンチの下に落ちていた小さな紙切れを見つけた。

 折りたたまれたその紙には、拙い字でこう書かれていた。


『誰かの心に、あたたかさが残ればいい。

 それだけで、僕は信じられる気がする。

 また、どこかで。』


 緒方は、そっと紙を胸ポケットにしまった。

 そして、駅前のベンチに腰を下ろし、今度は自分が缶コーヒーを二本、手にして待った。


 誰かが、今日、信じる勇気を必要としているかもしれない。

 

 その誰かに、そっと差し出せるように。


 人を信じる力は、きっと、こうして受け継がれていくのだ。


 

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『人を信じる力』 鈴木 優 @Katsumi1209

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