並ぶ影、噂になる距離
三月の朝はまだ冷たい。吐く息が白いのに、日差しだけは少しずつ春へ寄っている。
あの日から、通学路でもドラッグストアでも……色々な場所で、田辺さんと会う回数だけが妙に増えた。
増えたというより、俺の一週間の中に、田辺さんが入り込んできた、が正しいのかもしれない。
朝はこの曲がり角。夕方はこの横断歩道。放課後の時間帯は駅周辺。
その中に、田辺さんが混ざっている。
朝、駅前の人の波に混じって歩いていると、制服姿がちらほら目に入る。
後ろから、聞き覚えのある声だけが先に飛んできた。
「海斗くん!」
振り向くと、田辺さくら——じゃなくて、まだ俺の中では「田辺さん」が、マフラーを口元まで引き上げて立っていた。手袋のまま片手を振ってる。元気すぎる。
「おはよう。田辺さん」
田辺さんが頬をふくらませた。
「まだ“田辺さん”なんだ。もう知り合いでしょ」
「まだ、知り合いです」
「ほら固い〜」
歩き出すと、田辺さんは当たり前みたいに俺の横に並んだ。並ぶのが自然すぎて、断る間がない。
「今日も学校?」
「そう。終業式近いから、なんか変な感じ〜」
田辺さんは前だけ見て、まっすぐ喋る。
こっちは逆に、周りの目が気になってしまう。俺が気にしすぎるだけかもしれないけど……この町は“気にしなくていい”って言い切れるほど広くない。
「海斗くんは?」
「図書館で復習と、ちょっと課題。大学はもう授業なくて春休み」
「春休みなのに勉強?」
「……やらないと、三年の講義に置いて行かれるから」
口にしてから、少し恥ずかしくなった。真面目ぶってるみたいで。
でも嘘は言ってない。正直言って、置いて行かれるのは少し怖い。
田辺さんは目を丸くしたあと、すぐ笑った。
「えっ、えら! 大人じゃん!」
「大人ではないです」
「でも、しゃべり方が丁寧。先生みたい」
褒められてるのか、壁を作られてるのか、よく分からなくて、俺は曖昧に笑った。
駅の改札前で、田辺さんが急に足を止めた。
「ねえ、海斗くん」
「はい」
「田辺さん呼び、やだ」
直球。それもストレートど真ん中。
俺は言葉を探すのが遅れて、その分だけ余計に真面目な顔になったと思う。
「……嫌でしたか」
「嫌っていうか。距離あるじゃん」
「でも、ほら……外で、名前で呼ばれるのはさ」
誤解される——そう言いかけて、止めた。
理由を言い切ると、重くなる気がしたからだ。
それに俺は相手が嫌がることをやりたくない。俺の都合で縛りたくなかった。
田辺さんは俺の迷いを見て、むっとした。
「え、なに。照れてんの? ……それとも、私がダメ?」
「嫌じゃない。そうじゃない、違う」
否定が早すぎて、自分でも変だと思った。
「……ただ、田辺さんが困るかもしれない。迷惑を掛けたくない」
「困んないけど?」
田辺さんは即答すると、不思議そうな顔で俺を覗き込んできた。
分かっているのか……分からない——でも、後で田辺さんのほうに飛び火する気がして、俺は引かなかった。
「でも周りが勝手に誤解して、ありもしない噂が出て、田辺さんを傷つける……かもしれない」
田辺さんは口を尖らせたまま、しばらく黙った。
それから、ふっと息を吐いて肩をすくめる。
「村社会だね〜」
「……」
「じゃあさ」
田辺さんが少しだけ言い淀んで、マフラーの端を指でつまんだ。
それから、ちらっと俺を見る。目だけで確かめるみたいに。
「人がいるとこでは……今まで通りでいい」
「でも、誰もいないときは……さくらって呼んで」
その言い方は、譲歩じゃなくて踏み込みだった。
俺は返事が一拍遅れた。
「……それでいいんですか」
「うん。どう?」
「……」
「私がそうしたいの」
田辺さんは胸を張った。
その言い方が妙に頼もしい。
田辺さんがスマホを見て、顔色を変えた。
「やば!遅刻する」
「……マジか」
そう言いながら、こっちを見る。
「急いで。……転ばないで」
「うん」
田辺さんは一回だけ笑って、すぐ真顔に戻った。
そして改札へ駆けていく。
ピッ、という音。
俺の視界から、田辺さんの背中が改札の向こうへ持っていかれて——そのまま消えた。
俺は図書館に寄って、ノートを開く。
ページをめくるたび、窓の光だけが少しずつ低くなっていった。指先がだるくなって、ようやく顔を上げる。
もう夕方だった。
勉強道具を片付け、そのまま駅前のスーパーに向かう。
入口の自動ドアが開くと、野菜の青い匂いと惣菜の匂いが混ざって押し寄せてくる。カゴが擦れる音。呼び込みの声。
俺はカット野菜とゴミ袋をカゴに入れて、次は――と考えながら通路を曲がった。
「海斗くん!」
田辺さんだ。最初の一声が大きいのは、実に田辺さんらしい。
振り向くと、田辺さんは両手で買い物カゴを抱えて立っていた。中身は葉野菜と豆腐と、それからプリンがひとつ。
プリンがカゴの一番上に鎮座してるのが、妙にしっくりくる。
「……ここ、来るんですね」
「来るよ。てか海斗くんも? 生活の人だ〜」
「生活の人って何ですか」
「一人暮らしの人って、生活の買い物してるイメージあるじゃん」
ある。否定できない。
俺はカゴの持ち手を握り直した。
「田辺さんは?」
「私はね、これ! テスト終わったご褒美」
「期末テストって、もう終わりですか?」
「終わり終わり。返ってきた。死んだー」
「死んだって言うわりに元気ですね」
「死んだのは点数! 私は生きてる!」
声が跳ねた。
周囲の視線が、ほんの一瞬こちらへ寄るのが分かった。
俺は小さく咳払いして、田辺さんのほうへ少しだけ身を寄せた。
「……田辺さん。声、ちょっと」
言った瞬間、田辺さんが「はっ」として、口元を押さえた。
「ごめん」
言い訳が出ないのが、ずるい。
素直に謝るところが、好感を勝手に積み上げてくる。
パン売り場の前で田辺さんが食パンを見比べた。安い方と、少しだけ高い方。指先が迷って、結局安い方に落ちる。
そのまま牛乳コーナーで立ち止まって、最後に袋菓子を一つ。
先にプリンだけ確保してるあたりが、らしい。
「田辺さん、家の買い物もするんですね」
「するよ。たまに。ママが忙しいとき」
「えらい」
「えらくない。やるしかないだけ」
その言い方が、家の中で何度も役割を回してきた人のものに聞こえた。
言い切り方が大人びて見えて、でも次の瞬間、袋菓子にも目移りしているのが見えて……その落差が、かわいいと思ってしまう。かわいいと思った瞬間、胸が変に熱くなった。
惣菜コーナーへ向かう途中で、田辺さんの足が一瞬止まった。
——止まった、というより、動きが硬くなった。
田辺さんの目が、俺の背中越しにどこかへ滑って、すぐ戻ってくる。
声のトーンが落ちる。表情は崩さない。崩さないから余計に分かる。
田辺さんは何も言わないまま、俺の袖をちょん、と引いた。
「……あ、ヨーグルトもだった。戻っていい?」
俺は頷いて、言われるまま通路を変えた。
「今……知り合い?」
小声で聞くと、田辺さんは首だけ傾げた。
「んー? なにが?」
誤魔化された。
追及できる空気じゃない。田辺さんは“言いたくないこと”があるとき、急に上手に笑う。
俺の視線だけが、田辺さんの目が滑った方向に引っかかったまま戻らない。
今から追いかけて「ただの近所です」なんて言いに行ったら——それこそ“何かある”みたいに見える。
……遅れて言うと、言い訳みたいになるし。
だから、俺が田辺さんの横に立ってるだけで、もう材料は足りてしまう。
俺はそれに気づいたまま、何もできずにヨーグルト売り場の前で立ち止まった。
田辺さんを守るつもりでいたのに、守ろうとするほど目立つ。そんな矛盾だけが腹の奥に残った。
レジへ向かう途中、田辺さんが俺のカゴを見て指を差す。
「それ、重くない?」
「まあ……」
「手伝う?」
「いいです。田辺さんは自分の分だけで」
田辺さんが「む」と顔をした。
「私、高一だけど? 力あるし?」
「力の話じゃないよ」
言い方が固くなった。
田辺さんは一瞬だけ俺を見て、ふっと息を吐いた。
「……ありがと」
田辺さんはそれだけ言って、視線を前に戻した。
「はい」
俺のほうが変に意識してしまって、返事が固くなる。
会計を済ませて外へ出る。入口付近はまだ人がいる。
田辺さんは何も言わず、俺の少し前を歩いて、スーパーの角を曲がった。住宅街の細い道に入ると、足音が減って、空気が冷えた。
田辺さんが振り返る。マフラーの上から目だけが笑っている。
「ねえ」
「はい」
「……今、もう誰もいないよ。ほら」
その一言で、今朝の話を思い出してしまって、俺は袋の取っ手を握り直した。
喉が一度だけ鳴って、言葉が出るまでに、少しだけ間ができた。
「……じゃあ、さくら。――嫌なら、すぐ言って」
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