自然とテラー:ツキノワグマの場合 ―備えの現実―
富澤宏
本章
カサリと乾いた落ち葉を踏みしめる音が、澄んだ空気に響く。
「いやあ、やっぱりこの時期の山は最高だな。虫もいないし、空気も旨い」
先頭を歩く譲二(ジョージ)が、大きな背中を揺らしながら振り返った。
その手には、年季の入った木の杖が握られている。
「本当だね。でもジョージ、ちょっとペース早いよ。愛羅(アラン)がバテ始めてる」
最後尾を歩く太郎(たろう)が苦笑しながら声をかけると、真ん中を歩く大男が肩で息をしながら応じた。
「ちょっと待ってよ太郎くん……この坂、エグくない?
僕のプロテイン、全部脂肪に変わっちゃうよ……」
ピンク色の派手なスポーツウェアに身を包んだ愛羅が、膝に手をついて立ち止まる。
標高五百メートルにも満たない、三人が幼い頃から歩き慣れた地元の里山だ。
太郎のザックに揺れるクマ鈴が、チリン、チリンと軽い音を立てている。
その時、道の脇の落ち葉がガサッと音を立てて動いた。
鳥が跳ねたのか、それとも小動物が身を翻しただけか。
鈴の音に驚いた動物の、ごくありふれた反応。
だが太郎は、なぜか足を止めかけた。
今のは「逃げた」音ではなく、「向きを変えた」音に聞こえたからだ。
「……ねえ、太郎くん。その鈴、本当に大丈夫なのかな」
愛羅が不安そうに周囲の茂みを見渡した。
「ネットで見たんだよ。最近のクマは『鈴の音=人間が食べ物を持ってきた合図』だって学習してて、逆に寄ってくる……
『誘引』っていうらしいんだけど」
「ハハ、それはヒグマの話だろ」
譲二が軽く笑い飛ばす。
「北海道のヒグマは肉食性が強くて頭もいいから、そういうこともあるらしいけどさ。
本州のツキノワグマはもっと気が小さいんだって。
鈴を鳴らしておけば、向こうが先にビビって逃げていく。
それが山の常識だよ」
「……だといいんだけど」
太郎が口を挟む。
「最近はドングリが不作で、里の味を覚えた個体が増えてるんだって。
それに十一月の終わりだけど、今年は暖かいだろ。
まだ冬眠に入ってない可能性もある」
その時だった。
風が止まり、辺りが生暖かい空気に包まれた気がした。
――グォォ……。
地を這うような重低音。
カエデの藪が大きく揺れ、漆黒の獣が姿を現した。
ツキノワグマだ。
逃げない。
濁った瞳で、じっとこちらを見ている。
いや、見ているのは三人ではなかった。
譲二の背負っている、食べかけのパンが入ったザックだ。
太郎の脳裏に、聞きかじりの言葉が浮かぶ。
——執着個体。音にも、人にも慣れたやつ。
「おい……ジョージ。鈴が、効いてないぞ……」
愛羅の引きつった声。
クマが鼻を鳴らし、一歩踏み出す。
「ジョージ! 下がれ!」
太郎の叫びは間に合わなかった。
圧倒的な質量が譲二を押し倒す。
「うわあああ!」
クマは譲二の背中に覆いかぶさるようにして、鋭い爪でザックを引き裂き始めた。
譲二は反射的に、太郎から聞かされていた「身を守る姿勢」をとる。
うつ伏せになり、両腕で首の後ろを守る。
ザックが盾になり、致命傷は免れているが――長くはもたない。
(……助からない)
太郎の脳裏に、冷酷な生存知識が浮かび上がる。
『複数が襲われた際、動ける者が確実に下山し救助を呼ぶ。
共倒れを防ぐための非情な選択も、生存率を高める手段である』
今、自分と愛羅が逃げれば、一時間はかからずに人家へ着ける。
だが、その一時間の間に譲二はどうなる。
「太郎くん……どうしよう」
愛羅が泣きそうな声で太郎の服を掴んだ。
「……やめだ。見捨てるなんて、できるわけないだろ!」
正しい判断かはわからない。
太郎は自分に言い聞かせる。
「アラン、固まれ! 離れるな! 武器を持て!」
「アラン、何か目立つものを投げろ! 食べ物じゃないやつだ!」
「こ、これ!?」
愛羅が震える手でザックから取り出したのは、ラメが散りばめられたド派手なホログラム仕様のプロテインシェイカーだった。
「投げろ!」
銀色に輝く物体が宙を舞い、音を立てて転がる。
クマの首がピクリと動き、一瞬だけ譲二から視線が外れた。
「やるしかない、アラン! ストックを槍にしろ! 鼻先だ!」
太郎はストックを短く握り直し、死の恐怖を怒号に変えて踏み込んだ。
「ウオーーーッ!!」
二人は密着して咆哮を上げ、同時にストックを突き出した。
先端が、クマの急所である湿った鼻先を真っ直ぐに捉える。
「キャンッ!」
漆黒の巨躯から発せられたのは、猛獣の咆哮ではなく、まるで犬が悲鳴を上げたような短く鋭い声だった。
鼻先への激痛に、クマはパニックを起こし、譲二から飛び退いた。
「立て! 立つんだ!ジョージ」
――一瞬、音が消えた。
自分が興奮しているのか、怯えているのかも分からない。
ただ、次を間違えれば死ぬという感覚だけが残る。
「立て! 立つんだ!ジョージ」
二人は譲二を強引に抱え上げ、一列の横隊になる。
「腕を上げろ! 上着を広げろ!」
三人は腕を高く突き上げ、上着の裾を左右に広げた。
横幅三メートルを超える巨大な壁。
――そう見えるように振る舞うだけの、脆い壁だ。
クマは唸りながら一定の距離を保って付いてくる。
睨み合いが数十メートル続いた後、巨岩の陰に滑り込んだ。
視線が切れる。
三人は岩に背を預け、息を殺した。
数秒後、藪を漕いで遠ざかっていく足音。
クマは視界から消えた影を追うリスクを捨て、残されたザックへ向かった。
⸻
麓の交番前。
軽トラックの荷台に、猟友会のベテラン重松が腰掛けていた。
重松は三人を一瞥すると、すぐには口を開かなかった。
ポケットから小さな魔法瓶を取り出し、蓋を緩める。
ほんの一瞬、焦げたようなコーヒーの香りが漂った。
彼はそれを口に運ぶことなく、また静かに蓋を閉める。
「……これはな、執着個体だ」
言葉を区切り、重松は続けた。
「一度、食い物と人間を結びつけたやつだ。
音にも、人の姿にも慣れてる。
逃げるかどうかじゃない。
獲るかどうかで判断してくる」
太郎は喉を鳴らした。
「走って逃げてたら、追いつかれてた。
背中を見せた時点で終わりだ。
距離も、地形も、全部あっちが有利だ」
「二人が固まって、ストックを使って前に出たのは正解だった。
ツキノワはな、痛みに弱い。
特に鼻先だ。
ただし――今回は、だ」
重松は、トラックの助手席から赤い缶――クマスプレーを取り出した。
「今回は、たまたま当たっただけだ。
相手が一歩踏み込んでたら、結果は違ってた」
さらに続ける。
「だが次はそうはいかない」
「このスプレーがあれば、三メートル手前でクマを無力化できた」
「三人で山に入るなら、三人とも持て。
一人が持ってりゃいい、は通用しない」
少し間を置いて、低く言った。
「仲間を守るってのはな、気合の話じゃない。準備の話だ」
重松はそう言って、魔法瓶を軽く握り直した。
まるで、判断はここで終わりだと区切るように。
「……買おう。スプレー」
太郎が呟いた。
「ああ」と譲二が深く頷く。
「僕も買うよ、太郎くん!
今度は絶対に、僕が一番目立つキラキラした色のケースに入れてさ。
どんな時でもすぐに見つけられるように!」
愛羅が鼻をすすりながら、いつもの調子で立ち上がった。
「……アラン。一つ言っておくけど、スプレーはザックの中にしまい込んだらダメだよ」
太郎が真剣な顔で、愛羅の肩を叩いた。
「クマは数秒で距離を詰めてくる。
いざという時にザックを降ろしてチャックを開けて……なんてやってる暇はないんだ。
必ず腰のベルトやチェストストラップの、手がすぐ届く場所に固定しなきゃ意味がない。
それから、安全ピンの外し方も体に覚え込ませて――」
「うわぁ、やばい。
太郎くんのレクチャーモードにスイッチが入っちゃったよ」
愛羅が譲二の方を向いて、大げさに肩をすくめた。
「これはクマより手強いね。
一回捕まったら、講習が終わるまで逃げきれないよ」
「ははは! まあいいじゃないか」
譲二が、二人をまとめて抱き寄せた。
「そのおかげで、俺は今回『身を守る姿勢』を咄嗟にとれたんだから。
……ありがとな、太郎」
太郎は少し照れくさそうに視線を逸らした。
⸻
「ねえ太郎くん。さっき熊と対峙した時に叫んでたの、正解だったんだよね?」
「……多分な」
「じゃあ次から、山ではプロテイン飲む前に叫ぶよ」
譲二が吹き出す。
「やめとけ。それ、人に通報されるやつだ」
三人は、ほんの一瞬だけ笑った。
その笑いが、さっきまで自分たちが立っていた場所の危うさを、際立たせていることには、誰も触れなかった。
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