第5話 社会の中で再び壊れる私 —— 砕け散る指先
5-1. 就職氷河期の遺影
専門学校の二年間は、嵐の前の、あまりに脆い凪だった。
卒業を控えた私たちの前に広がっていたのは、希望に満ちた大海原ではなく、すべてを凍てつかせる「就職氷河期」という名の極寒の海だった。
私は、まるで何かに追い立てられるように履歴書を書き続けた。その数、実に六十枚以上。
指先はペンダコで硬くなり、深夜、安アパートの蛍光灯の下で書き上げるエントリーシートは、私にとって自らの「無価値さ」を証明するための報告書のようだった。
「あなたの代わりはいくらでもいる」
不採用通知が届くたび、社会という巨大な怪物からそう宣告されている気がした。山積みになった不採用通知は、私の死を待つ遺影のコレクションのように見えた。
ようやく手にした一社の内定。アパレル企業。
選べる立場ではなかった。私はその薄い命綱を、生爪を剥がすような勢いで必死に掴んだ。
「これで、私も『まともな大人』の仲間入りができる。あの惨めな学生時代を、制服の色ごと塗り替えられるんだ」
そう自分に言い聞かせ、希望という名の不自然な仮面を被り、私は社会という名の断崖から飛び降りた。
5-2. 鉄の女と、バキッという音
配属された店舗で私を待っていたのは、運命のいたずらと呼ぶにはあまりに無慈悲な、そして必然的な再会だった。
教育係として現れた女性。その鋭利な目つきを見た瞬間、私の毛穴が総立ちになった。
彼女は、地獄の高校時代、美沙と共に君臨していた二学年上の「先輩」だった。
「おはようございます」
震える声で挨拶をした私に、彼女が返したのは、挨拶ではなく、獲物の喉元を切り裂くような一言だった。
「死ねよ」
彼女にとって、私は未だに「なぶっていい石ころ」のままだった。
朝礼での挨拶練習。彼女は私一人をレジの前に立たせ、何十分も同じフレーズを繰り返させる。
「声が小さい」「やる気がない」「その顔、見てるだけで不快なんだよね」
周囲のスタッフは見て見ぬふりをする。かつての教室と同じ、透明な暴力が店内に充満していた。
入社二週間目の、湿り気を帯びた午後のことだ。
私が左手で商品のストックの引き出しを抑えながら、事務作業用のペンを探していた時。彼女が死神のような足取りで歩み寄ってきた。
「オメェ、チンタラしてんじゃねぇよ、って言ってんだろ!」
ドォォン!
凄まじい衝撃。彼女のヒールが、開いたままの重い鉄製の引き出しを、力任せに蹴り閉めた。
「――っ!!」
逃げ遅れた私の左手の薬指と小指が、冷たい鉄の間に挟まった。
静まり返った店内に、バキッ、という乾いた音が響いた。
それは、折れた枝が凍った地面に落ちたような、どこか他人事のように無機質な音だった。
視界が真っ白に弾け、喉の奥まで激痛が突き抜けた。
咄嗟に引き抜いた指は、瞬く間に赤紫に腫れ上がり、鼓動に合わせてドクンドクンと脈打っている。
涙が溢れるよりも先に、奥歯を食いしばる力が強すぎて、歯の根が軋むのを感じた。肉体的な激痛と、存在を否定された精神的激痛。まさに「Wの地獄」だった。
整形外科での診断は、指の腱の損傷。
私の左手は、それから十年の間、意思に反して歪み、自由を失うことになった。
だが、その時私の中で起きていたのは、指の損壊だけではなかった。
指が砕ける音よりも、私の心の屋台骨がへし折れる音の方が、ずっと大きく、絶望的に響いていた。
5-3. 精神科のエベレスト
それからの日々は、死の世界への緩やかなスライディングだった。
朝、目が覚めると同時に激しい吐き気に襲われる。駅の多目的トイレに駆け込み、空っぽの胃から黄色い胃液を吐き出す。鏡に映った自分の顔は、腐りかけた果実のように青白い。
「大丈夫、仕事に行かなきゃ。辞めたら、またあの地獄に逆戻りだ」
震える手で濃いメイクを施し、指の痛みを鎮痛剤で麻痺させ、戦場へ向かう。
日曜の夕方、テレビから流れるアニメの陽気なメロディは、私にとっては葬送曲にしか聞こえなかった。それは単なる憂鬱ではなく、確実な「死の足音」だった。
ある日の通勤電車。ドアが閉まった瞬間、肺の空気がすべて吸い出されたような感覚に陥った。
過呼吸。
必死で途中下車し、ホームの冷たいベンチで、三十代を目前にした女が背中を丸めて座り込む。
「……もう、無理だ。私が悪いんじゃない。何かが、壊れてるんだ」
私は、意を決して職場の近くにある精神科の門を叩いた。
当時の私にとって、精神科は未知の、恐ろしい領域だった。
「初診料だけで給料が飛ぶ」という根拠のない噂。低賃金労働者の私にとって、その診察代はヒマラヤ山脈よりも高い壁に思えた。けれど、もう金銭を惜しんでいる猶予はなかった。
薄暗い待合室。古ぼけた雑誌をめくる指が、指先から震えている。
呼ばれて入った診察室。そこには、医師自身も病の淵に立っているのではないかと思えるほど、陰気な雰囲気の老医師が座っていた。
「……先生、苦しいんです。指が動かなくて、朝も吐いて。もう、自分が誰だかわからないんです」
一通り話し終えると、医師はカルテから目を離さず、ぼそりと、鉛のような言葉を告げた。
「うつ状態ですね。それと……過去からの極端な気分の波を見る限り、双極性障害の傾向もあります。しばらく、腰を据えて戦わなければいけません」
その瞬間、私の中に不思議な感情が満ちた。
惨めだった。自分が「普通」のレールから完全に脱落した不良品だと判明したようで、悲しかった。
けれど、それ以上に、冷たく澄んだ安堵があった。
(ああ……私のせいじゃなかったんだ。私が我慢の足りないダメな人間だからじゃなくて、脳が、病んでいたからなんだ)
性格という「人格の問題」が、病気という「医学の問題」に変わった瞬間。
私は、ようやく生き延びるための、細い、けれど鋼のように硬い糸を掴んだ気がした。
砕けた指と、壊れた心。その破片を拾い集めるための、途方もない旅がここから始まることを、当時の私はまだ知らなかった。
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