学生に不人気な時代を研究していた大学教授、異世界で奴隷から皇帝へ
越後⭐︎ドラゴン
第1話 研究者、滅亡国家の奴隷王子になる
北海道の冬の訪れは、今年は早かった。
十月には、すでに雪が散りつき始めていた。
私の名前は臼井珪。
北海道札幌にある国立大学で教鞭をとっている。もう間もなく六十歳になる。定年まであと数年。これまで中国史、特に五胡十六国時代を専門としてきた。
研究室は築百年以上を経た、明治期の木造洋館だ。
窓からは、この大学を創設したとされる外国人の銅像が見える。
果たして私は、あの銅像の人物のように後世に名を残すようなことをしてきたのだろうか。
結婚はした。だが研究に没頭し家庭を顧みなかったせいで離婚した。子供も成人しているはずだが、会ってはいない。
夫としても、父としても、最低なのだろう。
そして研究者としても、冴えないまま終わりを迎えようとしていた。
私は学生の間では「仏」と呼ばれている。
構内の本屋では、教授たちの厳しさを評価した「鬼仏表」なるものまで売られているらしい。見たことはなかったが、私はその中でも最上位、観音菩薩の位置にいるという。おまけにその臼井圭という名前の音のせいで薄毛先生と呼ばれていた。私はそこまで禿げてはないのだが、そう呼ばれても怒ることはなかった。
おかげで受講者数だけは多い。
だが実態は違う。欠席者は多く、テストの日だけは講堂が満員になるが、普段は多くて十人程度とまばらだった。
学生たちにとって、五胡十六国時代は人気がない。
勢力が入り乱れ、時代背景が複雑すぎるからだ。中国史で人気なのは三国時代であり、最近では漫画の影響か、戦国時代から秦の建国期も注目されている。
五胡十六国時代は、すっとばされる。
唐の時代はまた別の理由で人気が高いのだが。
そんなある日、学長に呼び出された。
「来年度から予算縮小だそうだ。人気のない文系は大幅カットになる。君も身の振り方を考えてくれ」
頭が真っ白になった。
長年の研究成果が、不人気という理由だけで切り捨てられるのか。確かに近年、国は文系に対して風当たりが強い。経費も節約してきた。だが、まさか打ち切られるとは思っていなかった。
研究室へ戻る足取りは重かった。
収集してきた貴重な文献も、これまで書いてきた論文も、何だったのだろう。
この日を境に、私は鬼となった。
ちょうど後期試験の時期である。
出席率の低い学生は、すべて落とした。
テスト内容も、的外れな回答には容赦なく不可を付けた。
突然の豹変に、学生たちは騒然とした。
鬼仏表と違うと抗議する者もいた。そんなものは知らん。学生が勝手に作ったものだ。
四年生で卒業間近の学生の中には、私の単位を落としたことで留年となり、内定が取り消された者もいるという。それも私の預かり知るところではない。
二月。
大学は閑散としていた。試験や論文提出が終わり、皆のんびりしている。私だけが研究室を整理していた。手伝ってくれる学生もいたが、ごく少数だ。
四月からは早めの隠居生活に入るつもりだった。
もう中国史と関わることもないだろう。
独り身だ。蓄えもそれなりにある。
国内をのんびり温泉旅行して回るのもいいし、推し活などもしてみたかった。
そんな時だった。
講堂の踊り場で、四、五人の学生が私に詰め寄ってきた。
私が鬼になったせいで単位を落とし、留年し、内定が取り消されたのだという。怒鳴る者、泣いて懇願する者もいた。
だが私は、すべて無視して背を向けた。
その瞬間、誰かに背中を押された。
階段から転げ落ち、したたかに頭を打った。
どれほど時間が経ったのだろうか。
夢とも違う、重い沈黙があった。
白濁とした意識の中、遠くから声が聞こえる。
救急隊員か、学生だろうと思った。だが、その声の内容には違和感があった。
「死にたい……」
「奴隷生活は嫌だ……」
「あの男だけは、死んでも呪ってやる……」
理解できないはずなのに、なぜか声の主の思念が頭に流れ込んできた。
十五歳ほどの少年。
ある国の国王の子供だ。
父である国王は部下の裏切りに遭い、国は他国に滅ぼされた。
滅亡後、少年は敵国の奴隷となったらしい。
その少年の名は、タクバツケイ。
聞いたことのある名だった。
長年、私が研究対象としてきた人物だ。
ということは、父はタクバツセキ。代の国王。
代を滅ぼしたのは前秦のフケン――いや、シンのフケンということになる。
史料では、親族に匿われたとも記されていた。
奴隷だったというのが事実なら、新説になるだろう。
だが、それを研究する予算も、場所も、もうなかった。
少年は人生に絶望し、自刃しようとしている。
やめろ、と叫んだが、声は出なかった。
―――
珪は目を覚ました。
見慣れぬ場所。
腹部に痛みがあり、触れると包帯が巻かれていた。部屋は蝋燭の灯りに照らされ、調度品は日本のものではない。
「ケイ! 目を覚ましたのね!」
少女の声。
初めて見るはずなのに、なぜか知っていた。名をレイという。
私と同じくダイの王族で、共に奴隷となった少女だ。何かと気にかけて世話を焼いてくれる。どこか好意も寄せていた。
「奴隷のくせに、勝手に死ぬな」
男の怒声が飛ぶ。
私とレイの主人、タクゲン。シンの下級貴族だ。
戦時には前線に駆り出され、奴隷を兵として連れていく身分らしい。
私も間もなく初陣を迎える時期だった。
どうやらケイは、真っ先に犠牲になる奴隷兵となるのを恐れ、自刃を図ったらしい。タクゲンにとっては、貴重な戦力が失われかけた、迷惑な話だろう。
私は頭の中で状況を整理した。
どうやら私は、少年時代のタクバツケイの身体に乗り移ったらしい。
臼井珪だった頃の記憶も、はっきりと残っている。
よく知る時代だ。
タクバツケイは史実では無残な最期を迎える。だが知っているなら、回避できるはずだ。楽しいセカンドライフになる――そう思った。
だが、その考えは間違いだった。
レイが消えかけた蝋燭を取り替える。
その時、彼女の指先に小さな火が灯り、蝋燭に移った。
……魔法?
どうやら私は、単に過去へ来たのではない。
まったく知らない異世界に転生してしまったらしい。
私が研究してきた知識が、どこまで通用するのか。
何の保証もなかった。
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