喝采
八島清聡
Ⅰ 私を行かせてください
三月になろうかという時期に、冬の忘れ形見のように降った雪は、街を一面の銀世界に変えた。
光をはじき、音すら消しさろうとする純白を踏みしめる二つの影。
「エジュ、ついてきているか」
前を行くシャーリの声は弾んでいる。
彼は雪が降ると、いつも上機嫌だった。
日課の散歩もどこか浮足立ち、朝から護衛のエジュを連れて雪原を歩いた。
軍帽の
広い肩から流れるようにして、金色の
エジュは、主人の後を黙ってついてゆく。
シャーリの靴跡を、やや小さめのそれがなぞって開けた細い
二人は、あと五メートルほどで、林の入り口にさしかかろうとしていた。
突然、かそけき道は途切れた。
雪を被った常緑樹の陰から、殺意という名の冷気が噴出する。潜んでいたのは、白のレインコートに身を包んだ男たち。数は三人、いや四人。
シャーリは腰のサーベルを引き抜こうとした。が、刺客の銃口はすでに彼の心臓を捉えていた。
刹那、エジュは閃光のように動いた。
迷うことなく、自らの肉体をその軌道上へと投げ出した。
思考ですらない、本能的な跳躍だった。
「旦那さま、ふせてくだ……」
腰の拳銃を抜き放ったエジュの声は、最後まで続かなかった。
鈍い衝撃。
熱い塊が、右手にずいっと食い込んだ。
真っ赤に焼けた火箸で貫かれたような、凄絶な熱が
エジュの視界は、瞬時に白から深紅へと染め変えられた。
赤いものと共に何かが千切れ、雪の上に転がった。
手が急に軽くなり、皮膚の内側をひんやりとした風がなぶる。弾き飛ばされた銃も、赤と白のまだらに埋もれた。
不思議と痛みは感じなかった。
次に左肩を銃弾がかすめた。血飛沫が、顔に垂直に跳ねあがる。
ベットリと張りついたそれを拭うこともせず、エジュは手を諦めて前方を直視する。
自分たちは敵から丸見え状態。隠れる場所はどこにもない。
何発もの銃声が空をこだまし、エジュは音のする方向へ反射的に向き直った。
「エジュ!」
失われた手を見たのだろうか、背後から悲鳴にも似た叫びがしたが臆することはなかった。
今は前だけを見ていなければならない。
利き腕をやられても、銃が撃てなくても敵を倒す方法はある。自分は時間を稼げばいい。
「エジュ! どけ!」
背後から、怒声が聞こえた。
どくわけがない。シャーリが、真正面から凶弾に晒されてしまう。
押しのけようと、シャーリの手が肩を掴んだ。
エジュは、足を踏ん張って一歩も動かなかった。
声は出なかった。出たとしても、苦痛の喘ぎしか放てないだろう。
ダンダンと、続けざまに乾いた音がした。
エジュは、振り子のように左右に揺れた。
肉にのめり込む鉛に翻弄されながら、やはり足元だけは直立不動のまま乱れることはなかった。
彼の背中、どこか幼くやさしいたわみが反り、肩が大きく息を吸ったときのようにせり上がった。
ゴボリ、と忌まわしい音がした。
エジュは、渾身の力でシャーリを突き飛ばした。
雪のなかを転げながら、シャーリは自身の拳銃を構える。
彼は獣のように唸りながら、木の傍にうずくまった影を撃った。
一発、二発。
ボンッと果実を叩き割るような音がして、敵はあっけなく崩れ落ちた。雪の中に、今度は刺客たちの血花が開く。
最後の一人が逃げ出そうとしたところを、シャーリは獅子のような勢いで飛び掛かり、喉をサーベルで切り裂いた。
惨劇は、わずか数十秒の出来事だった。
エジュは、口をもぐもぐと動かした。
喉を押し上げるように
飲み込もうとし、むせて唾液と共に吐き出す。
「あ……」
自分の血を見たのは久方ぶりだった。
その射撃の腕によって、他人のそれは頻繁に見ていたけれど。
……旦那さま、もう敵は倒しましたよ。
そう言おうとしたが、声にならなかった。
血で湿っているはずなのに喉はカラカラに干からびて、苦痛の呻きすら吐き出せそうになかった。
落ちる……と思った瞬間、張り詰めていた緊張が解けた。
エジュはあおむけに倒れた。身体は痛まなかった。
そこが凍った土ではなく、一人で眠るアルミパイプのベッドでもなく、柔らかな純白の寝床であってよかったと思った。
シャーリが振り返るのが下から見えた。
彼の顔は、そこだけ血を抜き取ったように蒼白だった。
「エジュ、エジュ!」
シャーリは狂ったように叫び、エジュに駆け寄った。
そしてエジュの肩、胸、脇腹、右手、足といった幾つもの銃創を調べ、辺りに撒き散らされた血の量に愕然とした。
漏れ出す鮮血が、白銀の世界に、不吉で
彼は言葉を失った。瞳に激しい落胆が浮かび上がった。
……そしてまた、静寂が訪れた。
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