『その竈(かまど)には父の愛が灯る ——不器用なゴブリンと銀髪の愛娘——』

クワガタンク

第1話拾ったのは、神様の落とし物

中年ゴブリンのグリムは、自分のことを「生ゴミのような存在」だと思っていた。

群れでは一番小さく、戦えば負け、逃げることだけが取り柄。そんな彼が雨の夜、馬車の残骸で見つけたのが、黄金の瞳を持つ赤ん坊、アリスだった。


ゴブリンの社会に「愛」という言葉はない。だが、空腹で泣きじゃくるアリスを前にしたとき、グリムは初めて**「自分よりも大切なもの」**への恐怖を感じた。


  「……死ぬな。……俺みたいに、なるな」


それが、地獄のような育児の始まりだった。


拾った当初、グリムは赤ん坊の呼び方すら分からなかった。

そっと抱きかかえた拍子に、赤ん坊の毛布から、泥にまみれた銀のプレートがこぼれ落ちる。

そこには**「アリス」**という文字が刻まれていた。


 グリムにはかつて、村の外れの茂みから、一軒の店を眺めていた記憶があった。

看板には同じ文字が書かれ、村人たちはそこを「アリスのパン屋」と呼び、「少し焦げているけれど、温かくて幸せになるパンがある場所」として親しんでいた。


 文字の形が一致した瞬間、グリムは確信した。

この音は「お腹がいっぱいになって、誰もが笑顔になる魔法の言葉」なのだと。


「……あ。……り。……す。……お前、アリスだ」  


その名を呼んだ瞬間、赤ん坊は初めて「きゃはっ」と笑った。


グリムは、この子の人生をあのパン屋のように温かいものにすると誓い、銀のプレートを自分の一番硬い角に固く結びつけた。


 洞窟の中は、外の雨音を遠ざける代わりに、不気味なほどの静寂と冷気に満ちていた。  グリムは自分の胸元で微かに動く、小さな命の重みに震えていた。拾ってきたはいいものの、何をすればいいのか、何をさせればいいのか、彼には全く分からなかった。


 ふぎゃあ、と。  小さな、けれど鋭い声が洞窟の壁に反響した。


「……ひ、ひぃっ!?」


 グリムは飛び上がった。アリスが泣き始めたのだ。  

その泣き声は、空腹を訴える切実な叫びだった。

転生者であるアリスの意識は、幼児の身体が放つ抗いようのない飢餓感に支配されていた。

泣きたくないのに、喉が鳴り、腹がよじれるように痛む。


(お腹空いた……死んじゃう、何か、何でもいいから……!)


 アリスの無意識の魔力が、泣き声と共に漏れ出した。

パキパキと音を立てて洞窟の岩肌に亀裂が入り、入り口の岩がいくつか崩れ落ちる。


「ごめん! アリス、ごめん! 今、何か、出す!」


 グリムは慌てて、自分が隠し持っていた「宝物」を取り出した。

それは昨日、森で拾った泥だらけの芋だ。

ゴブリンにとってはご馳走だが、彼はそれを自分の服で必死に磨き、アリスの口元へ差し出した。


「……これ、食え。……うまいぞ」


 だが、アリスは顔を真っ赤にして、さらに激しく泣き叫んだ。

乳歯すら生えていない赤ん坊に、生の硬い芋など食べられるはずもない。


「……これ、ダメか。……そうだ、人間、白い水、飲む。……知ってる、俺」


 グリムは思い出した。村の牧場で、大きな獣の腹から人間が搾り取っていた、あの温かな白い液体——ミルクだ。  

しかし、そこに行くには村の境界を越えなければならない。

弱小ゴブリンにとって、そこは死地だ。


「……アリス、待ってろ。……死ぬな。……絶対、持ってくる」


 グリムはアリスを毛布に包み、洞窟の一番奥、風の当たらない場所に置いた。

そして、ボロボロの腰布一つで、再び雨の森へと飛び出した。


 村の牧場には、巨大な番犬が二頭、闇の中で目を光らせていた。

グリムにとっては、それはドラゴンにも等しい絶望的な怪物だ。

 普通なら、影を見ただけで逃げ出す。だが、耳の奥でアリスの泣き声が響いていた。


(俺、逃げない。……逃げたら、アリス、死ぬ)


 彼は泥を全身に塗り、息を殺して地面を這った。

番犬が鼻を鳴らし、唸り声を上げる。

グリムは心臓が止まりそうな恐怖の中、牧舎の隅に置かれた山羊の乳の瓶を見つけた。


 ガチリ、と瓶が触れ合う音がした。  その瞬間、番犬が吠え、グリムの肩に牙を立てた。


「ぎ、ぎゃああああっ!!」


 激痛が走る。肩の肉が食い破られる。

だが、グリムは瓶を離さなかった。村人が松明を持って駆けつけてくる。

石が投げられ、背中に鋭い痛みが走る。

 彼は血を流しながら、泥にまみれて森へと逃げ込んだ。


 洞窟に戻ったとき、グリムは立っているのもやっとの状態だった。

肩からは血が溢れ、全身が打ち身で紫に変色している。

それでも、彼は瓶の中身を木の器に移すと、それを焚き火のそばでじっと温めた。


「……あ、ちち。……ダメだ。……これ、熱すぎ」


 自分の指で何度も温度を確かめる。

 熱すぎればアリスが火傷をするし、冷たければ腹を壊す。

 ちょうど人肌の温かさになったのを確認し、彼は震える手でアリスの頭を支え、慎重にその唇へ器を寄せた。


「……飲め。……ゆっくり、飲め。……アリス」


 アリスは、差し出された温かな液体を夢中で啜った。

 ごくごく、という小さな音が洞窟に響く。

 やがてお腹がいっぱいになったアリスは、満足げにふぅと息を吐き、グリムの指を握ったまま、すやすやと眠りに落ちた。


「……ふ。……ふふ」


 グリムは、自分の傷の痛みも忘れ、泥と血で汚れた顔を歪めて笑った。

 暗い洞窟の中。  自分の命を削って手に入れた一瓶のミルクが、この子の未来を繋いだ。

 その事実だけで、弱小ゴブリンの心は、王族の財宝を手に入れたときよりも深く満たされていた。


  アリスが成長し、乳だけでは足りなくなった頃,グリムは「お粥」という存在を村の窓越しに知る。

 だが、道具も知識もない彼は、自分の牙でドングリを細かく噛み砕き

 それを木の皮に包んで蒸すという、あまりに原始的で、しかし愛情に満ちた方法で食事を作った。


  アリスは転生者だ。

前世の記憶を持つ彼女は、目の前の「緑色の化け物」が、自分のために自分の食事を削り、ボロボロになりながら、口当たりの良いものを探してきていることに気づいていた。


  (お父ちゃん……。それは毒のある実だよ。食べちゃダメ。……ああ、また食べてお腹壊してる……)


  グリムは、アリスに食べさせる前に必ず毒味をした。

  ゴブリンの頑丈(だけが取り柄)な消化器を頼りに、彼はあらゆる野草を齧り、何度も高熱を出して寝込んだ。

  アリスはその度に、拙い魔法で彼の額を冷やした。


「……アリス。……これ、甘い。……うまいぞ」

 

 彼が差し出したのは、彼が崖から落ちて片脚を引きずりながら採ってきた、森で一番甘い木の実だった。アリスはそれを口にし、涙を流して笑った。


 アリスが五歳になった頃。彼女はすでに、父であるグリムよりも高い魔力を制御し始めていた。

  ある日、グリムはアリスを喜ばせようと、崖の上に咲く「蜜の花」を採りに行き、足を滑らせて滑落した。

  傷だらけで帰宅したグリムの手には、無残に潰れた花びらが握られていた。


  「……ごめん、アリス。……うまく、採れなかった」


  グリムは情けなさに涙をこぼした、自分は弱い娘に美味しいもの一つ満足に食べさせてやれない。

  だが、小さなアリスは、父の泥だらけの手を取り、その潰れた花びらを口に運んだ。


「……おいしいよ、おとうちゃん」


 そしてアリスは、傷だらけのグリムの指に、優しく魔法をかけた。 

  「痛いの、飛んでけ」  それは彼女が初めて自発的に使った「治癒魔法」だった。

  グリムは驚き、そして娘を抱きしめた。  

この子はいつか、自分のような者の手には負えないほど立派な人間になるだろう。

 けれど、今はまだ、この冷たい洞窟で、不器用な「あーん」を繰り返す時間が、世界で一番尊いものだった。


 その夜、森は不思議なほど静まり返っていた。  

 洞窟の入り口から差し込む月光が、岩肌を青白く照らし、パチパチと爆ぜる焚き火の音だけが響いている。


五歳になったアリスは、グリムの膝を枕にして横たわっていた。

  グリムは、自分のゴツゴツした指でアリスの柔らかな銀髪を梳いていた。

  ゴブリンの爪は鋭いが、アリスに触れる時だけは、彼は細心の注意を払ってそれを引っ込める。

  それは壊れ物を扱うような、あるいは自分には勿体ない宝物に触れるような、祈りに似た手つきだった。


「ねえ、お父ちゃん」


 アリスが月を見上げたまま、小さな声を出した。

  その瞳には、五歳児には相応しくない、遠い場所を見つめるような憂いが宿っている。


「……なんだ。……アリス。……眠く、ないのか」 「うん。……ちょっとだけ、不思議な話をしてもいい?」


グリムは首を傾げた。彼にとって、この娘の存在そのものが不思議の塊だ。 「……いいぞ。……お父ちゃん、聞く。……全部、聞く」

 アリスは少しだけ躊躇するように唇を噛んだ。

  けれど、自分を支えるこの緑色の大きな手が、どれほど不器用で、どれほど温かいかを感じると、自然と言葉が溢れ出した。


「私ね……今の私になる前、別の場所にいたの。ここじゃない、もっと空が霞んでいて、夜でも太陽みたいに明るい、変な場所」


 グリムの動きが止まる。彼の理解の範疇を超えた話だった。


「別の、場所……。……遠い、村、か?」


「ううん、もっと遠い。そこではね、私は毎日、鉄の箱に乗って、窓のない大きな建物に行って、夜遅くまでずっと『仕事』っていうのをしていたの。お父さんもお母さんもいなくて……誰も、 私が今日何を食べたか、なんて聞いてくれない場所」


 アリスは、前世での孤独な社畜時代の記憶を、幼い言葉に変換して語った。

   数字に追われ、他人の顔色を伺い、冷えたコンビニ弁当を一人で頬張っていた、灰色の毎日。


「そこではね、誰も私を助けてくれなかった。……だから、あの日、お父ちゃんが私を拾ってくれた時、本当にびっくりしたんだよ。だって、お父ちゃんは自分もお腹が空いているのに、私にミルクをくれたから」


 アリスがグリムの手をぎゅっと握りしめる。

「お父ちゃんは、私が泣くたびに、自分の傷だらけの体なんて気にしないで、一生懸命お粥を作ってくれるでしょ? ……あんなに温かいもの、私、前の世界でも食べたことがなかったんだよ」


 グリムは、アリスの話の半分も理解できていなかった。「別の場所」がどこなのか、アリスが何を言っているのか、彼には想像もつかない。

 ただ、一つだけわかったことがある。  この賢くて美しい娘は、かつて、悲しくて寂しい思いをしていたのだということ。


「……アリス。……難しい、話。……よく、わからない」


 グリムは不器用に、けれど包み込むような優しさで、アリスの小さな肩を叩いた。


「……でも。……お父ちゃん、ここに、いる。……お前を、拾った。……お前が、泣けば、お粥、作る。……ずっと、作る」


 グリムにとっての真実はそれだけだった。  娘がどこの誰であったかなど、どうでもいい。  今、この腕の中で体温を分け合っている小さな命が、二度と寂しい思いをしないように、明日も森へ行って食べ物を探す。それだけが、彼の生きる理由だった。


「……そっか。そうだよね」


 アリスは、前世の重い記憶が、焚き火の煙と一緒に空へ消えていくような感覚を覚えた。

 転生者としての叡智も、巨大な魔力も、このゴブリンの親父の前では何の意味も持たない。

 ただ、「愛されている」という事実だけが、彼女の心を黄金色に染め上げていく。


「お父ちゃん。明日の朝ごはんは、またあの『ドングリの蒸しパン』がいいな。……ちょっと苦いけど、私、お父ちゃんの味が一番好きなの」


「……ああ。……焦げないように、焼く。……お父ちゃん、頑張る」


 グリムの答えを聞きながら、アリスはゆっくりと目を閉じた。

 洞窟の外では、夜の風が木々を揺らしている。

 けれど、この暗くて狭い岩穴の中だけは、世界で一番温かい、安らぎの光に満ちていた。


 さらに数年が経ち、アリスは立派な冒険者として街へ出るようになる。

  彼女はどんな強敵に勝っても、豪華な褒賞をもらっても、夕暮れ時には必ずあのボロい洞窟へ帰る。

  グリムは今でも、震える手でパンを焼いている。

「……おかえり、アリス。……今日の、ご飯は。……うまく、焼けたぞ」  


 アリスは微笑み、父の隣に座る。  彼女を最強にしたのは、才能ではない。

 自分よりも弱く、臆病で、それでも娘のために泥を啜り、震えながら離乳食を作ってくれた

「世界一弱い、お父ちゃん」の献身が、彼女の心の根幹を創り上げたのだ。


 アリスが十五歳になった頃。

 彼女は「銀閃の死神」として名を馳せていたが、未だに父グリムとの生活は不安定なままだった。

 魔物と人間。その境界線に住む二人を、世間は放っておかなかった。

 ある日、アリスの留守中に冒険者崩れの男たちが洞窟を襲い、グリムはアリスが大切にしていた「思い出の鍋」を守ろうとして、深い傷を負ってしまう。


「……ごめん、アリス。……俺が、弱い、から。……家も、守れない」


血を流しながら謝る父の姿に、アリスは涙が枯れるほどの怒りと、それ以上の決意を抱いた。

彼女は王都へ向かい、ギルドと国に対し、最も困難な依頼を提示した。


「北の『絶望の原生林』を私が単独で開拓する。魔獣を払い、街道を通し、人が住める土地にする。……その代わり、開拓した土地のすべてを私の私領とし、父を害する者の立ち入りを永久に       禁ずる。その権利を、王の名で保障しなさい」


そこは、凶暴な魔獣と呪われた植物が支配する、歴代の騎士団さえ匙を投げた死地だった。

国側は「勝手に死ぬがいい」と高を括り、その無謀な挑戦を許可した。

アリスとグリムの、二人きりの開拓が始まった。

アリスが魔剣で巨大な樹木をなぎ倒し、襲い来る魔獣を討伐して安全を確保する。

その後ろを、グリムが不自由な足を引きずりながら、ボロボロの鍬で土を耕し、岩を退けていく。


そんな二人のもとに、最初の「住人」が現れたのは開拓を始めて数ヶ月のことだった。

それは、人間に住処を追われ、飢え死に寸前だった子連れのオークの母子だった。

アリスは当初、父を守るために剣を抜いたが、グリムがその震える手でアリスの腕を止めた。


「……アリス。……待て。……この子、お腹、空いてる。……昔の、お前、みたいだ」


グリムは自分が食べるはずだった、貴重な「ドングリの蒸しパン」を、おずおずとオークの子供に差し出した。

魔物であるオークにとって、ゴブリンは格下の存在だ。

しかし、泥まみれで笑うグリムの姿に、オークの母親は声を上げて泣き崩れた。

それからだ。アリスの強さに怯え、あるいはグリムの噂を聞きつけた者たちが、一人、また一人と森へ迷い込んできたのは。


徴兵から逃げ出し行き場を失った人間の兵士、角を折られ群れを追われた亜人の戦士、そして親を亡くした孤児たち。


アリスは彼らに冷たく言い放った。


「ここに居たいなら、働きなさい。父の邪魔をする者は、私がこの手で細切れにする。……でも、父の手伝いをするなら、屋根と食事は保証するわ」


開拓地は、いつしか奇妙な活気に包まれていった。

アリスが森の奥で巨大な獲物を狩ってくると、亜人たちが手際よく解体し、人間の脱走兵が火の番をする。

そしてその中心には、いつもグリムがいた。

彼は言葉こそ拙いが、種族の壁を越えて、誰にでも分け隔てなく「あーん」と食事を振る舞った。


「……これ、食え。……元気、出る。……アリスが、獲った、肉だぞ」


差別され、泥を啜って生きてきた亜人や人間たちにとって、自分たちを「戦力」や「奴隷」としてではなく、ただの「家族」として扱うグリムの存在は、救いそのものだった。


彼らはアリスを「最強の領主」として敬い、グリムを「大旦那様」と呼んで慕った。

泥まみれの開拓地は、もはやただの作業場ではない。

どんな差別からも切り離された、世界で唯一の『聖域』へと姿を変えていった。


三年が経った。


死地と呼ばれた森には、アリスが切り拓いた真っ直ぐな街道が通り、グリムと仲間たちが耕した豊かな畑が広がっていた。


国側は、アリスが本当に開拓を成功させたこと、そしてそこが「魔物と人間の混成部隊」による最強の要塞と化していることに驚愕し、ついに彼女に「領主」の称号と自治権を与えざるを得なくなった。


新しい街『グリム・テラス』の誕生である。

領主館のテラスで、立派な服を着せられたグリムは、相変わらずオロオロしながら、住人たちに自分が育てたジャガイモを配り歩いた。


「……これ、うまいぞ。……みんなで、作った、土の、宝物だ」


かつては番犬一匹に怯えていた小さなゴブリンが、今や数千人の「除け者たち」の父親代わりとなっていた。

アリスは、そんな父の誇らしげな背中を眺めながら、かつて洞窟で交わした約束を思い出していた。


「お父ちゃん、見て。……もう誰もお父ちゃんを汚いなんて言わない。

ここは、世界で一番温かい、お父ちゃんの国だよ」


年月は残酷に流れ、アリスの時間は止まったかのように若いままであったが、ゴブリンであるグリムの身体には、その寿命の限界が刻一刻と刻まれていた。

かつて泥にまみれて崖を登り、娘のためにハチの巣を奪った屈強さは消え、今やベッドに横たわるグリムの身体は驚くほど小さく、軽くなっていた。


窓の外では、黄金色に輝く夕陽が街を照らしている。

アリスは領主としてのすべての執務を放り出し、父の枕元に椅子を引いて寄り添った。

その手には、一口分だけ丁寧にすり潰されたジャガイモのポタージュが握られている。


「お父ちゃん、あーん。……これ、お父ちゃんが一番こだわってた、北側の畑のジャガイモだよ。今年のは、格別に美味しいよ」


アリスが震える声でスプーンを差し出すと、グリムはゆっくりと、力なく口を開けた。

ポタージュを飲み込むその喉の動きさえ、今の彼には大仕事だった。


「……ああ。……うまい。……アリス。……お前の、お粥、世界一、だ」


グリムの視界はもう、ほとんど何も見えていなかった。

目の前にいるのが、美しい銀髪の大魔導師なのか、それともあの雨の日に拾った小さな赤ん坊なのか、彼には区別がつかない。


ただ、口の中に広がる温かさと、自分の手をぎゅっと握りしめる、あの頃と変わらない娘の熱だけが、彼の生命を繋ぎ止めていた。


「ねえ、お父ちゃん。覚えてる? 洞窟で食べた、あの焦げたドングリパンのこと。あの時、私にお粥をくれたから、今の私がいるんだよ。お父ちゃんがいなかったら、私は……」


アリスは言葉を詰まらせ、グリムの節くれ立った、切り傷だらけの手を自分の頬に寄せた。

ゴブリンのゴツゴツとした皮の感触。それは、自分を守るために番犬に噛まれ、ハチに刺され、岩を運び続けた「父の勲章」そのものだった。


「……アリス。……泣くな。……俺は、幸せ、だった。……お前が、一口、食べるたびに。……俺、お腹、いっぱい、だった」


グリムは微かな力を振り絞り、アリスの頭を撫でようとした。

指先が彼女の髪に触れた瞬間、彼は満足そうに目を細めた。


「……外に、誰か、いるのか……?」


「……うん。街のみんなだよ。みんな、お父ちゃんのご飯を食べて育った人たちが、お父ちゃんにお礼を言いに来てるの」


部屋の外、廊下や庭には、種族を超えた何百もの民が静かに跪き、自分たちを育ててくれた「大旦那様」の最期に祈りを捧げていた。

グリムは最期の力を振り絞り、アリスの耳元で囁いた。


「……アリス。……みんなを、お腹いっぱいに、してやれよ。……食べれば、元気、出る。……仲良く、なれる……」


それが、 グリムの最期の言葉だった。

夕陽の光の中、彼はかつて角に結びつけた銀のプレートに触れながら、静かに息を引き取った。

握られていた手の力が、ゆっくりと抜けていく。

夕陽の光が部屋をオレンジ色に染め、静かな眠りが彼を包み込んだ。

アリスは父の胸に顔を埋め、子供のように泣きじゃくった。


数日後。アリスは街の中央広場に、一つの像を建てた。

それは、誇らしげな領主の姿ではなく、ボロボロの布を纏い、大切そうに赤ん坊を掲げる不格好なゴブリン――開拓者グリムの姿だった。


そしてアリスは、父の遺言通り、その像の足元を巨大な「竈(かまど)」へと変えた。


そこは『グリムの台所』と呼ばれ、火が絶やされることはなかった。

身寄りのない子供、飢えた人々が集まれば、街の人々が当然のように温かい食事を分け与える。


アリスは、像の下で楽しそうにパンを齧る子供たちを見つめながら、静かに微笑む。


「お父ちゃん、見てて。ここは、誰もお腹を空かせない、世界一温かいあなたの庭だよ」


彼女を最強にしたのは、才能ではない。

自分よりも弱く、臆病で、それでも娘のために泥を啜り続け、最期には世界を温める大きな竈となった、たった一匹の「お父ちゃん」の献身だった。


そして今日も、「グリムの大竈」は皆の腹を満たしていく。

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『その竈(かまど)には父の愛が灯る ——不器用なゴブリンと銀髪の愛娘——』 クワガタンク @kuwagatank

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