第5話


「でもさ」

 

 グラスを置いて、私は言った。

 

「そういうビデオ見たことないのに、なんで官能小説は知ってるの?」

 

 立花さんは、少しだけ考える間を置いた。

 考えている、というより、言い方を選んでいる感じ。

 

「この間」

 

「うん」

 

「黒川さんが、書いてるって言ってたので」

 

 それだけで、もう答えは見えてきた。

 

「調べました」

 

「……調べた」

 

「はい。どういうものなのか、気になって」

 

 悪びれた様子はない。

 むしろ、当然のことを言っている顔。

 

「ちゃんと読むタイプなんだ」

 

「一応」

 

「ビデオじゃなくて?」

 

「文章の方が、分かりやすいかなって」

 

 その返しが、また少しズレている。

 

「感想は?」

 

 軽い気持ちで聞いたはずなのに、立花さんは真剣に考え込んだ。

 

「思ってたより……」

 

「より?」

 

「ちゃんとしてました」

 

 その言い方に、思わず眉を上げる。

 

「ちゃんと?」

 

「はい。もっと、こう……直接的なものかと思ってました」

 

「失礼だな」

 

「すみません」

 

 でも、謝り方が軽い。

 

「人の気持ちとか、状況とか、結構書いてあるんですね」

 

「まあね」

 

「正直、少し意外でした」

 

「どっちが?」

 

「官能、って聞くと、そういう行為が中心なのかと」

 

「それもあるけど」

 

「でも、読んだのは、そこだけじゃなかったです」

 

 その言葉に、少しだけ胸の奥が緩む。

 

「立花さん、真面目だね」

 

「そうですか」

 

「うん。変に茶化さないし」

 

「茶化す理由、ないので」

 

 グラスを傾ける。

 お酒の味が、さっきより柔らかく感じた。

 

「でも、ビデオは?」

 

「まだです」

 

「見る気はある?」

 

「……機会があれば」

 

「機会ってなに」

 

「分かりませんけど」

 

 本気なのか、冗談なのか分からない。

 たぶん、どちらでもない。

 私は小さく笑って、首を振った。

 

「立花さんってさ」

 

「はい」

 

「変なところで真っ直ぐだよね」

 

「よく言われます」

 

「そうだと思う」

 

 立花さんは、少しだけ口角を上げた。

 その表情が、昼間の仕事の顔とも、さっきまでの無表情とも違う。

 面白い子かもしれないとさっきより、その確信が強くなる。

 バーの中は、相変わらず静かだった。

 客は私たちだけでこの会話が、誰にも聞かれていないことが、なぜか少しだけ安心する。


 立花さんは、グラスを置いてから、少しだけ姿勢を正した。

 

「……相談、してもいいですか」

 

 その言い方は、さっきまでの雑談とは少し違っていた。

 

 真面目すぎるわけでもないけれど、軽く流されるのを避けるための間。

 

「いいよ」

 

 私はそう返して、続きを待つ。

 

「副業のことなんですけど」

 

 言葉を選びながら、立花さんは話し始めた。

 

「友達とか、同僚とか、家族には……あんまり相談しづらくて」

 

「どうして?」

 

「余計なこと言われそうなので。危ないとか、やめた方がいいとか」

 

「まあ、言うだろうね」

 

「ですよね」

 

 立花さんは、困ったように笑うでもなく、ただ事実として頷いた。

 

「黒川さんなら、仕事の話みたいに聞いてもらえるかなって思って」

 

 仕事。

 その言葉に、胸の奥が少しだけ動いたけれど、表には出さない。

 

「まだ、具体的には決まってないんです」

 

「うん」

 

「でも、もう少しだけ、余裕があったらいいなって」

 

 欲張りでもないし、切羽詰まってもいない。

 ただ、現実的な願い。

 私は、しばらく黙って立花さんを見た。

 カウンター越しの照明が、横顔をやわらかく照らしている。

 思ったより、静かな時間だった。

 

「じゃあさ」

 

 私は、軽く息を吐いてから言った。

 

「提案してもいい?」

 

「はい?」

 

 警戒はしている。でも、拒否の色はない。

 

「私の言うことをひとつ聞いたら、1万円」

 

 一瞬、空気が止まる。

 立花さんは目を瞬かせて、それから私を見る。

 

「……冗談、ですか?」

 

「冗談だと思う?」

 

「……正直、分からないです」

 

 その返しが、妙に正直で、少しだけ笑ってしまいそうになる。

 

「冗談じゃないよ。でも、変な意味じゃない」

 

 私はすぐに続けた。

「私が呼んだ時だけ。セックスをするとか、そういうのは一切なし」

 

 立花さんは、黙って聞いている。

「時間も、遅くても終電で帰っていい。無理なら断ってもいいし、来なくてもいい」

 

黙って聞く立花さんに続けて話す。


「条件はひとつだけ。その日、その場で、私の言うことをひとつ聞く」

 

 少し間を置いて、付け足す。

 

「悪い条件じゃないと思うけど、どう?」

 

 立花さんは、すぐには答えなかった。

 グラスを持ち上げて、一口飲む。

 考えている。

 ちゃんと、条件として。

 

「……なんで」

 

 静かな声。

 

「なんで、それを私に言うんですか」

 

 真っ直ぐな質問だった。

 私は、少しだけ視線を逸らしてから、正直に言う。

 

「思ったより、立花さんが面白くて」

 

「面白い、ですか」

 

「うん。話してて、変に気を遣わなくていいし」

 

 言葉を選びながら続ける。

 

「それに、これからも話したいなって思ってる」

 

 立花さんは、少しだけ目を見開いた。


「あと」

 私は、肩をすくめる。

「こう見えて、お金は持ってるよ」

 

「そうなんですね」

 

「こう見えて、一定のファンがいる、小説家だからね」

 冗談めかして言うと、立花さんは小さく息を吐いた。

 

「すぐに決めなくていい」

 

「……」

 

「迷うでしょ」

 

「はい」

 

 正直な返事。

 それから、しばらく、どうでもいい話をした。

 この店は遅くまでやっているとか。

 平日の夜は静かでいいとか。

 立花さんは、何度も条件を頭の中でなぞっているのが分かった。

 来る。断れる。帰れる。

 線を確認している。

 

「……」

 長い沈黙のあと、私は言った。

 

「じゃあさ」

 

「はい?」

 

「まずは、お試しでならどう?」

 

 立花さんが、こちらを見る。

「一回だけ。それで、合わなかったら、やめればいい」

 

 逃げ道を、ちゃんと残す。

 

 立花さんは、少し考えてから、ゆっくり頷いた。

 

「……一回だけ、なら」

 

「うん」

 

「やってみてもいいです」

 

 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で、何かが静かに決まった。

「じゃあ、それで」

 

 私は、グラスを軽く持ち上げた。

 

「一回だけ」

 

「はい。一回だけです」

 

 立花さんは、そう言って、念を押すように付け足した。

 その慎重さが、やっぱり少し、面白いと思った。

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