小説家の彼女に買われる話
夜凪
1万円の価値
第1話
インターホンを押す前に、
私、
時計の針は20時を指している。
仕事終わりに寄ると、いつもこの時間だ。
軽く深呼吸をし、インターホンを押す。
ゆっくりこちらに向かう足音がドア越しに聞こえる。
「こんばんは」
「…こんばんは」
外に出る予定のない人の格好。私は靴を脱いで、
何度目か分からない家に上がるために、靴を脱ぐのも何度目だろうか。
「遅くない?」
「いつも通りですよ」
「そう?」
それだけ言って、千尋さんは部屋の奥に戻る。
私は後ろについていき、いつもの位置、
ソファの端に座った。会話もなく、沈黙が続く。
こういう間にも、もう慣れてしまった。
「きょうは何したらいいですか?」
自分でも、随分、事務的な聞き方だと思った。
でもこれが一番楽。考えなくていいから。
千尋さんは少しだけ視線を逸らしてから言った。
「今日は、帰るまで、呼び捨てにして」
何を言ってるのか理解できなかった。
というよりも、なぜ?という疑問だけが頭に浮かぶ。
「……名前を、ですか」
「他に何があるの」
「いえ」
私は短く息を吐いた。
「分かりました。じゃあ、えっと…んん、千尋……」
呼び捨てにしただけ。
なのになんでこんなにむず痒いんだろう。
それだけなのに、千尋さんはわずかに眉を動かした。そして、じっと顔を見つめて言う。
「もう一回」
「え、ぁ、……千尋」
「うん」
それ以上、何も言わない。
合格なのかどうかも分からないけど、条件は達成したらしい。
「ごほん、それで、他にはなにをしたら?」
「特にない」
「じゃあ……いつも通りでいいですか?」
「うん」
いつも通り、というのが何を指すのかもう説明はいらなかった。
私は立ち上がってキッチンへ行き、棚からマグカップを二つ出す。コーヒー豆を挽く音が、部屋に響く。この動きも慣れたものだ。
「今日は会社どうだったの?」
背中越しに、千尋さんが聞いてきた。
「普通です。月初なので、ちょっと忙しかったですけど」
「クレームとか?」
「今日は大丈夫でした」
「それは良かった」
お湯を注ぎながら、私は言う。
「千尋さんは?」
「…………」
とわうやら今日は呼び捨てにしないと反応もないらしい。意外と厄介なお願いかもしれない。
「んん、千尋……は今日どうだったの?」
呼び捨ても、タメ口も、慣れない。
これでいいのか?と思いつつも千尋さんが返事をしてくれるので、間違えてはないようだ。
「……書けてない」
「いつもそう言ってません?」
「今日は本当に進まなくて」
少し間があって、
「だから、来てくれて助かった」
その言い方が、あまりにも自然で、私は返事に困った。
「仕事なので、来るのは当たり前です」
「じゃあ、これからも呼ぼうかな」
千尋さんはソファに深く座り直す。
「もちろん、仕事として、ね」
「それなら、問題ないです」
コーヒーを渡すと、千尋さんは両手で受け取った。
「熱い」
「すぐ冷めます」
「真白が淹れると、いつもちょうどいい」
「偶然です」
「偶然が続くと、必然になるって言うけど」
「そういう話、今はしなくていいです」
私がそう言うと、千尋さんは小さく笑った。
「相変わらず、線を引くのが上手いね」
「線がないと、仕事にならないので」
「……仕事」
千尋さんはその言葉を繰り返して、カップに口をつけた。
テレビをつける。
内容は何でもよかった。
バラエティ番組の笑い声が流れる。
「真白」
「はい」
「今日は、何時までいられる?」
「終電前には帰ります」
「そう」
それ以上、引き止める言葉はない。
私はそれに、少しだけ安心する。
しばらく、二人とも画面を見ていた。
「この人、昔から苦手」
千尋さんが突然言う。
「え、誰ですか」
「ほら、この司会の人」
「ああ……私は嫌いじゃないです」
「そうなんだ」
「声が安定してるので」
「営業目線」
「職業病です」
他愛もない会話。
特別じゃない。意味もない。
でも、こういう時間が一番長い。
「ねえ、真白」
「はい」
「もしさ」
「はい」
「この条件、なくなったら……来なくなる?」
私は一瞬だけ考えてから、答えた。
「それは、条件次第です」
「正直だね」
「仕事なので」
千尋は何も言わなかった。
代わりに、テーブルの上に、折りたたんだ紙幣を置く。
「帰るとき、忘れないで」
「分かってます」
裸のままの一万円。
封筒も、メモもない。
私はそれを見てから、視線をテレビに戻した。
これでいい。
これは、仕事みたいなものだ。
そう思いながら、私はコーヒーを飲み干した。
時計を見ると、22時を少し回っていた。
「そろそろ、帰ります」
私がそう言うと、千尋さんは一拍置いてから頷いた。
「分かった」
それだけで引き止めもしないし、残念そうな顔もしない。
私はソファから立ち上がり、テーブルの上に置かれた一万円を手に取った。折り目のついた紙幣は、触ると少しだけ湿っぽい気がするが気のせいだと思うことにした。
「忘れ物ない?」
「大丈夫です」
「そっか」
千尋さんは立ち上がらず、ソファに座ったままこちらを見る。見送る気はないらしい。
最初から、そういう距離感だった。
靴を履く前に、私は振り返った。
「呼び捨て、ここまででいいですよね」
「うん」
「じゃあ……おやすみなさい」
「おやすみ、真白」
私は呼びますても、タメ口も苦手なのに、彼女は得意そうに言うものだから、なんだかくすぐったい。でも、今さら訂正するほどでもない。
私は軽く頭を下げて、玄関を出るとドアが閉まる音が、やけに静かに響いた。
廊下を歩きながら、ポケットに入れた一万円の感触を確かめる。これがある限り、これは仕事だ。
そう思えば、全部説明がつく。
エレベーターを待つ間、スマホを見が特に通知はない。友達からも、会社からも、千尋さんからも。
いつも通り。
エレベーターが来て、乗り込む。
扉が閉まる直前、ふと、さっきの千尋さんの顔を思い出した。
ほっとしたような顔。嬉しそうな顔。
それは仕事に対する礼だと思う。それにきっと私以外と話をしてもあんな顔をするのだろう。
そういうことにしておく事が今1番いい。
地上に降りると、夜の空気が少し冷たく、頬が一気に冷える。
コンビニの明かりが遠くに見え、寄っていこうか一瞬迷ったが、やめた。
終電は空いており、座席に座ってバッグを膝に置く。ポケットから千尋さんに貰った一万円を取り出して、財布に入れる。
今日も、ちゃんと条件は守った。
言うことはひとつだけ。
呼び捨てにする。
それだけ。
「……簡単」
小さく呟いて、窓の外を見る。
流れる街の灯りが、どれも同じに見えた。
家に着いて、靴を脱ぎ、誰もいない部屋にただいまと言う。返事はなく、部屋は静かだ。
電気をつけて、コートを脱ぎ、バッグを置く。
いつもの動作の後、ベッドに腰を下ろして、スマホを見る。
まだ23時前。思ったより早い。
――今日は、何時までいられる?
千尋さんの声が、頭の中で再生される。
「終電前には帰ります」
そう答えた自分の声も。
私はスマホを伏せて、天井を見上げた。
条件は、分かりやすい。
お金も、ちゃんと受け取っている。
境界線も、守っている。
なのに。
「何考えてるんだろ」
自分に向けて言って、苦笑する。
考える必要なんてない。
次に呼ばれたら、また行くだけだ。
それでいい。
私はそう思いながら、部屋の灯りを消した。
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