第5話 腹を満たす仕事

 翌日、三上は仕事を休んだ。

 目覚ましを止め、布団の中で天井を見つめたまま、スマートフォンを手に取る。


 派遣会社の勤怠システムを開き、過去の記録を遡った。

 六か月分。

 月ごとの残業時間を、淡々と確認していく。


 六十五時間。

 七十二時間。

 六十八時間。


 基準を超えている月が、三つ並んでいた。


 それを見て、特に驚きはなかった。

 ただ、数字として並ぶと、言い逃れの余地がないだけだった。


 三上は画面を閉じ、弁護士事務所のサイトを開いた。

 退職代行。

 会社都合退職。

 必要事項を入力し、送信する。


 やり取りは短く、事務的だった。

 その日のうちに手続きは終わり、翌日から出社する必要はなくなった。


 有給を消化することもなく、席を片づけることもない。

 唐突だが、終わりはそんなものだった。


 部屋に戻ると、妙に空気が軽く感じられた。

 肩に乗っていた重さが、いつの間にか消えている。


 そのとき、不意に異世界で見た光景を思い出した。


 路地の奥。

 骨ばった腕。

 痩せ細った体。

 食べ物を探す目。


 感情より先に、計算が浮かぶ。


 ――供給が足りていない。


 都市に人が集まる理由は、仕事だけではない。

 農村が災害や飢饉に見舞われ、流れ着いた者もいると聞いた。

 だが、都市側の受け皿が追いついていない。


 三上は、これまでの自分を思い返す。

 ギャンブルで金を稼ぐことはできた。

 だが、誰の腹も満たしていない。


「……違うな」


 独り言が漏れた。


 もっと、規模の大きいこと。

 もっと、多くの人の役に立つこと。

 事業として、回る形で。


 当面、異世界では食料が足りていない。

 それは間違いない。

 そして、地球――とりわけ日本で手に入る食料は、異常なほど安い。


 三上はスーパーの棚の前で、しばらく立ち止まった。

 冷蔵ケースに並ぶ紙パックを見て、頭の中で条件を洗い出す。


 冷蔵が必要。

 輸送中の温度管理。

 保存期限。


 異世界側に、安定した冷蔵設備はない。

 少なくとも、今見えている範囲では期待できない。


「……最初から牛乳は無理だな」


 代わりに目に留まったのが、常温保存の豆乳だった。

 箱詰めされた無調整豆乳。賞味期限は長く、光を避ければ品質も安定する。


 タンパク質。

 脂質。

 カロリー。


 数字を頭の中で並べる。

 パンと組み合わせれば、最低限の栄養は満たせる。


 完璧じゃない。

 だが、まず「腹を満たす」には十分だ。


 三上は、食パンと豆乳をカゴに入れた。

 量は多くない。試す分だけだ。


 異世界に渡り、商人ギルドを訪れる。


「これを卸したい」


 そう切り出し、試食用に並べたのは、パンと豆乳だった。


 最初、職員は半信半疑だった。

 だが、パンをちぎり、豆乳を口に含んだ途端、表情が変わる。


「……これは」


 言葉は続かなかった。

 甘さでも、珍しさでもない。

 ただ、身体に入っていく感じがあった。


 保存方法。

 供給頻度。

 価格帯。


 簡単な条件確認のあと、話は前向きに進んだ。

 ギルド加盟の店で、試験的に扱ってみることになる。


「まずは様子を見る」


 三上もそれに同意した。

 いきなり大量に動かすには、地球側の調達と輸送を詰める必要がある。


 翌日から、定期的にパンと豆乳を納める。

 規模は小さい。

 だが、冷蔵に頼らず、確実に回る形だった。


 三上は、ようやく実感した。


 これは、金を増やす行為ではない。

 人の生活を、最低限から支える仕事だ。

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