『金継ぎ調律師と、記憶を持たぬ白銀の少女』

九条 湊

榊原堂との出会い

 ――調律師の卵――

 春杜はるとは、「榊原さかきばら堂」と書かれた看板の前で立ち止まった。

 一見すると、ただの古道具屋にしか見えない。


 ――ここまで来たら、勢いだ。


 意を決して、扉を開ける。

 そこには、まるでどこの誰が来るか解っていたかのように、一人の男が立っていた。


「ようこそ、榊原さかきばら堂へ」


 とても胡散臭い笑顔だった。


「俺は客じゃないです。ここに、榊原さかきばら慧真けいまという方はいますか?」


 胡散臭い店員は、当然のように答えた。


「私がその人です。朝霧あさぎり春杜はるとさん。あなたをお待ちしていたんですよ。それはもう、たのしみに」


 ――もう帰りたい。


 なぜこの男は自分のことを知っているのか訝しみ、春杜はると慧真けいまを睨みつけた。


「やっぱり来ない方がよかった。あなた、怪しすぎるんですよ。あんなもの、俺なんかに送りつけてきて」


 慧真けいまは意に介さず言った。


「まあまあ。せっかく来たんだから、ゆっくりしていってください。お茶もお菓子もご用意してるんですよ」


 そう言うと、春杜はるとを応接用の席へ、半ば無理やり連れていく。


「私は遠回りなことをしない性分なので、いきなり本題を言いますね」


 慧真けいまは向かいの席にちゃっかり座り、


春杜はるとさん、ここで一緒に働きませんか?」


 と告げた。


 慧真けいまの灰琥珀の瞳は、冗談を言っているようには見えなかった。


 春杜はるとは真剣に言葉を探す。


「働くもなにも、俺はここから汽車で何時間もかかる距離に住んでますし、学校にも通っている」


 慧真けいまは、脇に置いてあった書類を手渡してきた。

 それは、春杜はるとの通う美術学校の休学許可証と、寮の転出届だった。


 驚きすぎて、声も出なかった。


「私がちゃんと全部、万事解決しておきました。安心して、今日からここで住み込みで働いてください」


 また胡散臭い笑顔だ。


「今日はあなたのせいで、俺の人生最悪の日、更新ですよ」


 春杜はるとは逃げ場を失ったあげく、暴君に捕らえられた。


「ではまず、ここでの仕事を紹介しますね。最近、心が自分のものじゃないように落ち込んだり、気分が上がったりする病、ご存じですか?」


 勢いについていけないながらも、春杜はるとは答えた。


「はい。この世界に心律塔しんりつとうが神から与えられ、顕現して以来、人々の感情が整えられ、争いが無くなって平和になった――建前では」


 当たり前のように注がれた紅茶を一瞬見つめ、言いよどんでから続ける。


「悪く言うと、抑制され、操作されているとも言いますよね。なのに、感情の爆発としか言いようのない症例が各地で出ている。それが、ここの仕事に関係しているとでも?」


 慧真けいまは、子どもを褒めるように小さく拍手をした。


「はい、そのとおり。心律塔しんりつとうもそうですが、それと一緒に人々に与えられた、神からの祝福の証――契約石けいやくせき。国民なら誰でも、生まれたときから与えられる特別な腕輪が関係しています」


 春杜はるとは、自分の腕に光る契約石けいやくせきを見つめる。


「これがなんだっていうんです? ただ心律塔しんりつとうの恩恵を受けるための器ですよね?」


 慧真けいまは真剣な表情になった。


「その契約石けいやくせきは、自分の歩んできた人生を、複雑な色と光とひびで映す鏡でもあります。

 そして感情の爆発が起きた人の契約石けいやくせきは濁ります。


 それを金継きんつ調律ちょうりつという儀式で、感情を整え、調律し、受け入れられる形にして本人にお返しする。

 それが、私たちのお仕事です」


 春杜はるとはため息をついた。


「それは立派な仕事ですね。で、俺になにをしろと?」


 慧真けいまは嬉しそうに言った。


「あなたには、依頼人の契約石けいやくせきから伝わる想いを通訳してもらいます。あなたにしかできません」


 脇から道具をせっせと取り出しながら続ける。


「これは遍路盆へんろぼん契約石けいやくせきを載せる台座です。痛みの帰り道を示します。こっちは――」


 春杜はるとは慌てて遮った。


「まだやるとも言ってないのに、それ全部説明する気ですか?」


 慧真けいまは頷いた。


「はい。大事なことなので。これはつぎ扇子せんす魂核こんかくドールの涙を受け止め、返還の路を――」


 春杜はるとは驚いて声を上げた。


「今、魂核こんかくドールって言いました? ここに来るんですか? 神の使いと言われているものですよ?」


 慧真けいまつぎ扇子せんすをぱっと開く。


「もちろんです。あれらは我々の一族が管理する、人を正しく導き、見届けるもの。いて当たり前です。特にこの場にはね」


 慧真けいまは香に火をつけた。


「これは息香そくこう。呼吸を整えます。どうです? 落ち着きました?」


 漂う芳香に、春杜はるとの思考は一瞬さまよう。

 そして、残った意匠の美しい箱に目を奪われる。


「これは何です?」


 慧真けいまは箱を手に取った。


「興味が湧いてきましたか? これはとても大事ですよ。つぎはこといって、二箱で対になっています。


 一箱はこちらで大切に保管して、もう一箱は儀式が終わった後、契約石けいやくせきを入れて本人にお渡しするんですが」


 さらに、ひときわ美しい色の箱を取り出す。


「こっちが完成した姿。人それぞれの色に染まった箱。

 まあ、感情を受け入れられた証――証書みたいなものです」


 春杜はるとは、つぎはこに引き付けられるように見入った。


 その瞬間、目の前に銀の細い棒を突きつけられる。


「最後に、これがあなたの仕事に関わる道具、音信おんしんです。契約石けいやくせきひびの意図を聞き、それをあなたが通訳して差し上げるんです。異論は受け付けません」


 春杜はるとは、うんざりしながら人生の岐路に立たされた。

 深く息を吐く。


「……どうせ、最初から選択肢なんてなかったんでしょう」


 視線を逸らし、投げやりに言う。


「仰せのままに」


 こうして――

 逃げ場を失った青年と、胡散臭すぎる男の、

 奇妙な二人三脚が始まった。


 ――白銀の目覚め――


 わたくしは、気がついたら大きな塔のある広場に立っていた。

 塔があること以外は至って普通で、のどかな午後の一幕だ。


 けれど――

 前も後も、ない。

 時間のつながりが、そこでぷつりと切れている。


 ここはどこ?

 どうして、ここにいる?


 ――それはそうですわね。

 記憶が、ないのですもの。


 わたくしの心とはまるで無関係のように、この公園は平和そのものだ。

 人々が皆、安心した顔をしている。


 前から歩いてきた親子の、子供の方と目が合った。


「白いお姉さん、どうしたの? 一人ぼっちの顔してるよ?」


 取り繕うものは何もない。

 けれど――一応、取り繕った。


「白い……?

 わたくしが、ですの?」


 女の子は、こくりとうなずく。


「うん、白い」


 手提げから手鏡を出して、差し出してくれた。

 覗き込む。


 そこには、白い髪をした少女が、白銅はくどう色の瞳でこちらを見つめ返していた。


 動揺を隠しながら、手鏡を返す。


「……本当ですのね。

 わたくし、白いのですのね。

 ありがとうございます。助かりましたわ」


 何も思い出せないのは、仕方がない。

 そう思うことにして、諦め、あてどもなく歩き出した。


 すると――

 塔らしきものを、無心に描いている青年が目に入った。


 誠実そうな人柄がにじみ出る、茶色の柔らかい癖毛の青年。

 わたくしは、絵が大好き、それは覚えている。


 絵は、作者の心を映す鏡のようなもの。

 そこから伝わる音色は、多彩で、わたくしの心を豊かにしてくれる。


 彼の描いている絵を、見てみたい。


 そう思って隣に並び、スケッチブックを覗き込み、声をかけた。


「まあ……。

 貴方、とてもおもしろい絵を描かれますのね。

 ほとんど完成されているのに、要の部分だけが空洞で……

 まるで、“可能性そのもの”みたいですわ」


 絵を描いていた彼は、飴色の瞳をこちらに向けた。


「これは……昔から染みついてる俺の癖なんだ。

 この表現しかできなくてさ。

 君は、ここで何を?」


 少し考えるふりをして、答える。


「何もしておりませんの。

 ここに、いるだけですわ。

 何をしたらよいのかも……分からないのですの」


 青年は鉛筆を置いた。


「もしかして君、何か困ってる?」


 わたくしは、ぱっと目を輝かせた。


「ええ、そうですの!

 わたくし、気がついたらこの広場に立っておりましたの」


 敢えて、明るく振る舞う。


「自分の名前も、思い出せませんのよ。

 冗談みたいなお話ですわよね?

 ――ねえ、それよりも」


 彼に、もう一度鉛筆を握らせる。


「素敵な絵を描かれる貴方。

 お名前は、なんとおっしゃいますの?

 書いて、教えていただけませんか?」


 彼は慣れた様子で、スケッチブックに文字を書いて見せてくれた。


 朝霧あさぎり 春杜はると


「“あさぎり はると”って読む」


 少し困ったように、続ける。


「……君、それは“それよりも”って話じゃないと思うよ。

 もう、かなりの一大事だ」


 そう言われてしまうと、わたくしも、現実から逃げてばかりはいられなくなる。

 言葉を探していると、春杜はるとさんが言った。


「差し出がましかったら申し訳ないけど……

 よかったら、俺の働いてる店に来る?」


 意味を咀嚼できずにいると、彼は続けた。


「店には、変わった店主がいてさ。

 たぶん、君みたいな子を……引き受けたがる。

 盛大に面倒を見てくれるよ」


 その瞬間、歓喜の花が咲いた。

 気がついたら、春杜はるとさんの手を握っていた。


「……よろしいんですの?

 わたくし、行くところがなくて……

 本当に、とても困っておりましたの。

 ぜひ、連れていってくださいませ」


 春杜はるとさんは、安心させるようにそっと手をほどき、画材をしまう。


「“榊原さかきばら堂”っていうんだ。案内するよ」


 立ち上がり、わたくしを促して歩き出した。


 春杜はるとさんは「榊原さかきばら堂」と書かれた、趣のある和洋折衷の建物の前で足を止め、扉を開けた。


「ここだよ。入っておいで……慧真けいまさん、ただいま。

 ちょっと紹介したい子がいるんだけど」


 店内に入り、春杜はるとさんの背中からぴょこっと顔を出す。

 所々に骨董品が並ぶ、古くめかしいけれど、どこかワクワクする空間。


 きょろきょろと見回していると――

 ミルク入りの紅茶みたいな髪色の人物が目に入った。


 その人物は、わたくしを見るなり目を丸くし、箒を取り落とす。


「どうして……あかりが――」


 言いかけて、慌てて口を手で塞いだ。


慧真けいまさん、とうとうおかしくなったんですか?

 取り乱すなんて、あなたらしくもない。もしかして知り合いとかですか?」


 慧真けいまさんと呼ばれた男は、何でもなかったように箒を拾い上げる。


「……いや、違う……」


 小さく呟いてから、笑顔を作った。


「気のせいですよ。何でもないです。

 それより、紹介したいって……その方ですか?」


 春杜はるとさんは外套を脱ぎながら言う。


「?……まあ、はい。そう。この子です。

 自分の名前も思い出せないみたいで、行くところもないみたいなので、連れてきたんですけど」


 ミルク紅茶の人は、違和感があるほど綺麗な所作で一礼する。


「これはこれは。初めまして。

 私は榊原さかきばら 慧真けいまと申します、迷い人さん」


 挨拶のあと、片目をぱちっと閉じてみせた。


「……初めまして、ですわよね?

 榊原さかきばら 慧真けいまさん。

 どうぞ、よろしくお願いいたしますわ」


 慧真けいまさんは春杜はるとさんの外套を受け取り、


「ええ、よろしくお願いします。楽しくなってきましたね。

 さっそく歓迎のお茶会を開かなきゃ」


 そう言い残し、いそいそと店の奥へ消えていった。


 春杜はるとさんは苦笑いする。


「悪い人ではないんだけど……何かごめんね。俺も君を歓迎するよ。

 君……名前、決めておいた方がいいよね。

 慧真けいまさんに任せると、どうなるかわからない」


 春杜はるとさんは、わたくしの瞳をじっと見つめた。


「君、綺麗な瞳をしている。白銅みたいだ。

白銀しろがね”って名前はどう?」


 心の中で、その名前を転がしてみる。


「……とても、素敵ですわ。

 わたくし、それがよろしいですの。

 白銀しろがね

 こんなに綺麗なお名前を、ありがとうございます」


 春杜はるとさんは、優しく頭をなでてくれた。


「気に入ってくれてよかった。

 どうぞ、あちらの席で寛いで。慧真けいまさんを待とう」


 わたくしは――

 胸の奥で、何かが静かに動き出すのを感じていた。


 それは期待というより、

 もう戻れない場所に足を踏み入れた、という予感だった。


 けれど、不思議と怖くはない。


 そんな始まりの気配に、

 わたくしはただ、身を委ねていた。


 奥から戻ってきた慧真けいまさんが、紅茶と、個性あふれる創作菓子を何種類も並べ始めた。


「当店自慢の紅茶と、私が作った菓子——

 春の吐息を閉じ込めた私の思い出、と、青春の灯火を君と、あとそれから——」


「そこまで!」


 春杜はるとさんが遮った。


「創作菓子に妙な名前をつけるのはいいですけど、今はこの子が戸惑う。

 慧真けいまさん、いいですか?

 この子は今、何も分からなくて不安なんです。もう少し配慮を」


 わたくしは、もう堪えきれなくなっていた。


慧真けいまさん……すごいですわ。

 どれもきらきらしていて、宝石みたいですの。

 ……わたくしが頂いても、よろしいでしょうか?」


 慧真けいまさんは、わたくしにナプキンを差し出した。


「もちろんです。

 春杜はるとさんに出しても、可愛げのない反応が返ってくるだけですし、張り合いというものがない。

 君に食べてもらえるなんて、光栄ですよ」


 わたくしは、思わずお菓子に手を伸ばした。


「……とても美味しいですわ。

 慧真けいまさん、こんな素敵なお菓子を作られるなんて。

 それから……」


 少しだけ胸を張って、続ける。


「わたくし、もう“君”ではありませんの。

 春杜はるとさんにお名前を頂きましたのよ。

 白銀しろがねと申しますわ」


 慧真けいまさんは、大袈裟なくらい喜んだ。


白銀しろがね

 それはよかったですね。とてもいい名前です。

 よろしければ春杜はるとさんの分も、どうぞ。白銀しろがねさん」


 春杜はるとさんは、少し不服そうに言った。


「いいよ。俺が食べるより、白銀しろがねに食べてもらった方が、お菓子も喜ぶ」


 春杜はるとさんは紅茶を一口飲んでから、慧真けいまさんを見た。


慧真けいまさん。

 あなた、もう決めた顔をしてる。

 でも確認までに、この子をどうするおつもりで?」


 慧真けいまさんは、甲斐甲斐しくわたくしの口元をナプキンで拭いながら答えた。


「こんな、いたいけな少女を一人ぼっちにできるはずがありません。

 もちろん、家で保護させていただきます」


 わたくしは手を止め、しばし言葉を失った。


「……こんな、素性も分からないわたくしを。

 それでも……ここに置いてくださるのですか?」


 春杜はるとさんは、安心させるような微笑みを浮かべた。


慧真けいまさんがそう言うなら、覆ることはないよ。

 俺もここに住んでるから。分からないことがあったら、頼って」


 思わず立ち上がる。


春杜はるとさん、慧真けいまさん……ありがとうございます。

 至らぬところばかりだと思いますけれど、

 どうぞ、よろしくお願いいたしますわ」


 慧真けいまさんは、わたくしの手をエスコートするように取った。


「では、二階の部屋へ案内しますね」


 慧真けいまさんは二階へ上がり、部屋の扉を開けた。


「今は客間ですが、少しずつ白銀しろがねさんの気に入った物を増やしていきましょう」


 部屋には、静かな時間が流れていた。

 テーブルと椅子、柔らかなベッド、そして控えめに置かれた骨董品。

 小綺麗に整えられていた。


 それよりも、窓の外に、金木犀の花が咲いた木が目に入った。


 部屋に入り、窓の外に咲く金木犀に目を留める。


「……まあ。

 とても、素敵なお部屋ですわ」


 窓を開けると、香りがふわりと広がった。


「気に入りましたか?

 この部屋は、庭がよく見える日当たりのいい部屋なんですよ」


 庭を見渡すと、よく手入れされた可愛い花々が咲き誇っていた。

 特にバラの赤い大輪の花々は見事だった。


 言葉より先に、胸がいっぱいになって、深く頭を下げていた。


「このお部屋……

 わたくし、とても気に入りましたの。

 こんなにたくさんの素敵なものを与えてくださって……

 慧真けいまさんも、春杜はるとさんも」


 春杜はるとさんは照れくさそうに、

 慧真けいまさんは誇らしげに。


 二人がわたくしを歓迎してくれる、その姿勢が、嬉しくて仕方なかった。


「また夕食の時に呼びにきます。

 それまで、ゆっくりなさってくださいね」


 二人が立ち去ったあと。

 わたくしは金木犀の香りに包まれながら、

 これからのことに思いを馳せ、

 可愛い庭を、いつまでも眺めていた。


 コンコン。


白銀しろがねさん。

 お夕飯の準備が整いましたよ。

 今日はささやかな歓迎パーティーです。少し奮発しました。

 料理は逃げませんから、どうぞ焦らずいらしてくださいね」


 そう言って、慧真けいまさんは階下へ降りていった。


“パーティー”という言葉を聞いた途端、

 わたくしは落ち着いていられなくなった。


 気づけば慧真けいまさんのあとを追い、

 置いていかれまいと袖をつかんだまま、食堂へ辿り着いていた。


白銀しろがね、早いね。

 よかったら座って。今、温かい料理を持ってくるよ」


 春杜はるとさんはテーブルにグラスを並べながら、穏やかに手招きする。


「はい……ありがとうございます。

 とても楽しみですわ。

 慧真けいまさんが、お料理を作ってくださったのですの?」


 慧真けいまさんも席につき、軽く肩をすくめた。


春杜はるとさんと共同作業ですよ。

 実は彼のほうが、料理は得意なんです」


 そう言いながら、わたくしのグラスにジュースを注ぐ。


白銀しろがねさん。

 君はいま、何も分からず不安かもしれません。

 ですが……安心してください。

 今は深く語れませんが、君は悪い存在ではありません。

 時が来れば、自然と分かることもあるでしょう」


 思わず肩が跳ね、

 グラスの中身が少し零れた。


「……慧真けいまさん。

 わたくしのことを、何かご存じなのですか?

 もし差し支えなければ、教えていただきたいのですけれど……」


 そこへ、料理を運んできた春杜はるとさんが、静かに口を挟んだ。


白銀しろがね

 この人は秘密主義で、しかも胡散臭い。

 無理に聞き出そうとするだけ、損だよ」


 わたくしは、少しだけ肩を落とした。


 ——けれど。


 ガス灯の明かりに照らされた料理は、

 あまりにも美しく、あたたかくて。


 胸の奥にあった疑問や不安は、

 一時、すべて溶けてしまった。


 ……今は、これでいい。


 歓迎の宴はささやかだったけれど、

 確かにわたくしを、

 あたたかく迎え入れてくれていた。


 時がたち、

 わたくしが榊原さかきばら堂の日常に、すっかり慣れ親しんできたころ。


 今日も開店前、

 いつものベンチに腰掛けて、春杜はるとさんの日課であるスケッチに付き添っていた。


「わたくし、春杜はるとさんの絵が大好きですの。

 見ていると、いろんな想像が膨らんで……

 とても楽しい気分になれるんですのよ」


 春杜はるとさんは、隣に座るわたくしへ、

 優しい飴色の瞳を向けた。


「俺は、ここで心律塔しんりつとうを感じたまま描いているだけだよ。

 ……でも今日は、何だか塔のほうが形を変えてしまっているみたいで、

 うまく描けないな」


 わたくしは心律塔しんりつとうを見上げ、

 思わず目をこすった。


 ——形は、変わっていない。

 ……変ですわ、春杜はるとさん。


「ねえ、心律塔しんりつとうというのは、

 みなさん当たり前のように受け入れていらっしゃるけれど、

 一体、何なのかしら?

 あんなに大きな黒い水晶みたいなのに、

 どうして“塔”と呼ばれているのですの?」


 春杜はるとさんは、腕につけていた宝石のブレスレットを外し、

 そっと、わたくしの手に乗せてくれた。


「これはね、契約石けいやくせきって言うんだ。

 心律塔しんりつとうが、神様の恩恵を発していて、

 それを受けるための器だよ。


 塔があるおかげで、俺たちは強い感情を抑えられて、

 争いの少ない世界に変わったんだ」


 わたくしは契約石けいやくせきの重さを手で感じる。


心律塔しんりつとうが恩恵を発している……

 電波みたいなものでしょうか?

 だから塔と呼ばれるんですのね」


 わたくしは、そのブレスレットを光に透かして見つめる。


 宝石はダイヤモンドカットで、淡い金色。

 よく見ると、細いひびのような模様が複雑に刻まれ、

 幻想的な光をまとっている。

 そこから、数本のチェーンが静かに揺れていた。


「……とても綺麗ですわね。

 春杜はるとさんの契約石けいやくせき

 わたくしには無いものですから……少し、羨ましいですわ」


 春杜はるとさんは、わたくしの頭を優しく撫でた。


「ありがとう。

 契約石けいやくせきは、その人の人生そのものなんだ。

 十人十色で、同じものはひとつとして存在しない」


 撫でる手を止めないまま、続ける。


「親がね、

“この子を一人の人として育てます”って神様に祈ると、

 魂核こんかくドールが、無垢で無色透明の契約石けいやくせき

 枕元に届けてくれるんだ」


 少しだけ言いよどんでから、静かに。


「……白銀しろがねがよければ、

 俺と慧真けいまさんで祈るよ。

 君は、もう俺たちの大切な人だから」


 胸の奥が、ふわりと温かくなった。


「ありがとうございますの。

 春杜はるとさんのお気持ち、とても……とても嬉しいですわ。

 わたくしも、お二人のことが大好きで、

 大切に思っておりますのよ」


 撫でてくれている手を取り、

 そっと、自分の胸元へ導く。


契約石けいやくせき……

 みなさんとお揃いで、少し憧れはありますけれど……

 それでも、わたくしは、

 自分の感情を奪われてしまうのは嫌だと思うのですわ。

 ですから……いりませんの」


 春杜はるとさんは、少し驚いたあと、

 感心したように微笑んだ。


白銀しろがねは、強いね。

 俺たちは、感情の起伏が少ない、なだらかな世界に慣れすぎてしまって……

 君みたいに、真正面から感情と向き合うことができない。

 ……尊敬するよ」


 わたくしは、そっと探るように見つめる。


「……感情、怖いんですの?」


 春杜はるとさんは、今にも泣いてしまいそうな表情で、

 小さくうなずいた。


「うん。怖い」


 胸にこみ上げる衝動のまま、

 わたくしは春杜はるとさんを抱きしめた。


白銀しろがね、ありがとう。

 君がそばにいるだけで……

 強くなれそうだ」


 もっと、想いが伝わればいいのに。

 そう願って、さらに強く抱きしめる。


 そのとき——


「――あの!」


 息を切らした少女が、駆け寄ってきた。


 そこに立っていたのは、

 モダンな洋服を背伸びして取り入れた印象の微笑ましい、

 わたくしより少し年上の少女だった。


 セミロングの焦げ茶色の髪が、

 ところどころ跳ねながら、朝の光を受けて揺れている。

 好奇心を隠さない、澄んだ緑の瞳。

 弾けるような笑顔。


 ——春の嵐、ですわ。


 わたくしの気分まで巻き込まれて、

 思わず明るくなってしまう。

 そういう方だった。


「すみません!

 榊原さかきばら堂ってお店、どこにあるかご存じですか?」


 わたくしが見とれていると、

 春杜はるとさんがスケッチブックを閉じ、爽やかに笑った。


榊原さかきばら堂なら、俺たちが案内しますよ」


 少女の表情が、ぱっと輝く。


「本当ですか!

 おじいちゃん、聞いた!? 見つかったよ!」


 少し遅れて、

 渋い着物を着流したおじいさんが近づいてきた。


 返事はあったけれど、どこか元気がない。


 春杜はるとさんは、その様子を確かめるように見て、

 静かにうなずいた。


「……行きましょう」


 少女の「うん!」が、

 朝の空気を、軽く押した。


 少女と老紳士の背中を見送りながら、

 わたくしは、胸の奥でごく小さな音がずれたのを感じていた。


 ——今のは、


 その理由を考える前に、

 風にさらわれるように消えてしまった。


 こうして、止まっていたわたくしの時間は、新たな音を奏でながら動き出したのです。



――――――――――

あとがき

「最後までお読みいただきありがとうございます。九条 湊です。 この続き、そして世界の真実が明かされる完結済の連載版は、こちらで毎日19時5分に更新しています!」

https://kakuyomu.jp/works/822139842538114747約7万5千字で完結

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