エデンズイ

朝吹

 

 灰色の雲の合間から突き出してきた拳が、大地を殴った。落雷のような音が空高く昇り、衝突した地点から四方に亀裂が走り始める。

「キリア」

 カイの呼ぶ声はキリアには聴こえなかった。土石流のようにこちらに向かってくる濃灰色の巨大な手。掌側にある口と牙。五本の指を痺れたように立ち尽くして見ていた。いきなり現れると云われていた通りだった。『手』は突然、空を割って眼前に降りてきたのだ。

「それに腕はないの」

 邑の長老にキリアとカイは訊いたものだ。

「手首の先は。肘や肩、その続きは。右手なの左手なの」

「ない。肩も胴体もない」

 長老は応えた。

「顔もなければ、脚もない。見た目は濃霧に見える。そこから五本、櫛の歯のように先が延びている」

 キリアとカイは同じ方向に首を傾けて言外に疑問を訴えた。しかし長老は皺の寄った手を二人に向けて、無言で手首のあたりに横一線を描いてみせた。お前たちも見ればわかる。それは、『手』だ。

「キリア」

 放たれた矢がキリアを過ぎて、泥の塊りのような『手』に刺さる。それを見たキリアはようやく己を取り戻し、「逃げよう、カイ」と少年に叫んだ。

「馬は」

「落ちた」

 二人の馬を繋いでいた樹は『手』がまさに出現した近くだった。彼らの馬は樹木ごと大地のひび割れの中に消えていた。

 カイがキリアを押した。

「キリア、川に飛び込め」

 渦巻く渓流が崖下を流れている。

「早く行け」

 キリアを背に庇い、カイが『手』に矢を放つ。矢が刺さると『手』は動きを鈍らせる。その直後、『手』は増々猛り、闇雲に突進しては岩や樹を跳ね飛ばしていた。

 カイを残して逃げるわけにはいかない。茸を採っていた籠を放り出すとキリアは走って戻り、カイの腕にしがみついた。落ちるなら一緒だ。

「行こう、カイ」

 カイの腕を引っ張ってキリアは崖から身を躍らせた。二人が宙に浮いた瞬間、追いついた『手』がカイを指先で跳ね飛ばした。

 カイ。

 水に落ちる直前にキリアが見たものは、濃灰色の『手』に弾かれたカイが宙高くに舞い上がり、その後に崖から飛び出した『手』の口に吸い込まれて消えるところだった。水柱を上げて水中に落ちたキリアは猪の背に乗るようにして川下へと一気に流された。

 ようやく川面から顔を出した時には、下流まで下っていた。そこからはもう何も見えなかった。あの巨大な『手』も見えなかった。

 岸に辿り着いたキリアは、ずぶ濡れのまま、川原の石を手の中に集めた。今からまた崖道を戻ってカイを助けるのだ。待っていて、カイ。

 上空に異変があった。『手』が去った後にはそうなると教えられたとおりに、雲が環を作り、中央が円形に空いている。そこに午後の空が見えた。『手』は去ったのだ。カイを呑み込んで。

 煙のように渦を巻く灰色の雲は、いつしかほどけて、山岳に静寂が訪れた。その静けさはキリアに、キリアたちの暮らす麓の邑も『手』にすっかり呑まれたことを伝えていた。

「それで」

 敷物の上で煙管を燻らしながら寝そべっていた男は、少女の話が終わるのを待って、閉じていた眼をあけた。茶器の向こうにいる少女の眸は固い決意を浮かべていた。それは男にとっては見慣れた顔だ。戦の前には誰もがあんな顔をする。

「キリアといったな。お前の友だちの少年を『手』から取り戻したいと」

「そうです」

「喰われたのだろう。お前の話が本当ならば」

「まだ死んだと決まったわけでは」

「死んでいるさ」

 無情にも男は決めつけた。男は片手だけに革手袋をはめていた。

「最初の一撃で即死している」

 しかし少女の面にはなんの変化もなかった。それは他ならぬキリア自身が何度も想い返してきたことなのだ。空高く跳ね上げられたカイ。

 男は訊いた。

「女の子さん。『手』に勝つ方法があるとおもうのか」

「あなたは『手』と闘ったことがあると、ききました」

「誰に」

「方々の人たちから」

「どうしようかな」

 立てていた片膝を崩して、男は天井を仰いだ。壁には窓から差し込む日光に照らされた彼の影が黒い壁画のように伸びていた。

 やがて男は、横目でキリアを見た。

「お願いします」 

 キリアは膝を進めた。

 長旅を続けてきた少女が小袋から取り出してきたのは、土色と翠色が混じり合った石塊だった。

「引き受けてくれるのならば、これを」

「なんだそれは」

「邑で採れる貴石です。高値がつきます。この石を少しずつ売って、ここまで旅をしてきました」

 少女の返事をきくと、男は腹の上で手を組み、しばらく考え込んでいた。


 

 翌朝、樹の下でキリアが目覚めると、旅仕度を終えた若い男が馬を連れて立っていた。いつものように外套にくるまってキリアは野宿していたが、夜の間に男が毛織物をいちまい、上からかけてくれていた。

「そこの家で朝食をもらえる」

「はい」

「食べたら出よう」

「はい」

「俺の名はシグスト」

 無精ひげを剃った男は、明るい処で見ると初見の印象よりもずっと若かった。片手だけにはめていた革手袋を今は両手につけている。朝陽を宿した梢を眩しげに仰ぐその眸は清んだ湖の色をしていた。

「あ、それに触らないほうがいいぞ」

 朝風の中に紫色の花が咲いている。丈の高い珍しい花に手を触れてみたキリアは小さく声を上げた。指先が爪まで真っ赤になっている。シグストは砂に手を擦り付けて色を落すようにと促した。

「その花の名はエデンズイだ」

 砂を使って擦り落とすと、赤い色は何とか薄れた。

「この国の兵士はこの花で染めた鎧を身に着ける。エデンズイの鎧は負傷しても敵に気取られることがない。死ぬまで闘うための鎧だ」

「シグストさんは兵士だったの」

「まあね」

 キリアはシグストの腰に眼を遣った。

「これか」

 シグストは腰に佩いた剣をすらりと抜いた。

「王から近衛兵に下賜されたものだ。迂闊に触ると怪我をするぞ」

 剣は何の変哲もない形をしていたが、赤鎧が握ると刀身も赤く燃え上がると云われて近隣諸国からひどく怖れられていた。

 馬に乗る前、シグストはエデンズイの花びらに小指で触れ、キリアの唇の上にその小指をはしらせた。

「血色が悪い。砂ねずみのようだぞ、お前」

「すみません」

 キリアは頭巾を深くかぶった。そんなにずけずけ云われなくても薄汚れていることは自分がいちばんよく知っている。

「最初の旅籠に着いたら風呂だな」

 ついでにキリアがそこまで乗ってきた小馬も新しい馬と交換だ、とシグストは告げた。



 逃げろ。

 仲間の兵士が叫んでいる。王をお護りせよ。こっちに来るぞ。

 空を割って落ちてきた『手』は、掌を拡げ、指を使って前進し、槍隊や弓兵をはね飛ばしながら真っ直ぐに向かってきた。

「お待たせしました。シグストさん」

 キリアを待つ間、昼寝を決め込んでいたシグストは、しばらく夢と現の合間に身を任せた。

 お逃げあれ、王。

 王を乗せた馬の尻を叩き、シグストは鞘から抜き払った剣を構えた。

 よせ、『手』に敵うわけがない。シグスト。

 しかしシグストは王の制止を無視した。土煙と血吹雪を上げながら迫りくる『手』は、縦にも横にも砦ほどはあり、その勢いは大地を激震させながら移動する獣の群れのようだった。

 シグスト。

 濃灰色の『手』からは、冷気と氷粒が吹き付けてきた。崩落する地面を避けてシグストは足場を移動した。誰もが逃げ惑う中、シグストだけは『手』に向かって歩いていた。

「シグストさん」

 大きな町の旅籠では、旅人が風呂に入っている間に衣を洗濯して、風呂場の火を利用した小部屋ですっかり乾かしてくれる。キリアは生まれ変わったように小ざっぱりとしていた。

「気づかなかった。お前の膚や髪はそんな色をしていたのか」

「夢を見ていたのですか。うなされていましたよ」

「死にたかったんだ」

 シグストは応えた。

 

 


》中

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