銀の毒、猫の爪 ―美しく勝てないなら、羊羹などいらない―
Tom Eny
銀の毒、猫の爪 ―美しく勝てないなら、羊羹などいらない―
銀の毒、猫の爪 ―美しく勝てないなら、羊羹などいらない―
この家には、二つの「澱(よど)み」がある。 一つは、時代に取り残された煤けた木造の空気。もう一つは、目の前の十一歳の少女、椿が抱える異常なまでの美意識だ。
私は猫だ。名はクロ。この家の「盤上の審判」として、今日も行儀よく座っている。
「ねえ、爺ちゃん。この飛車、魂が震えるほど綺麗だわ」
椿が指した一手に、私は喉の奥で小さく鳴いた。にゃあ。論理的には悪手だ。だが、盤上に描かれたその光跡は、確かにAIには計算できない「銀の糸」のように美しい。師匠である祖父の友治は、目を細めて頷く。この老人もまた、勝敗よりも「魂の置き場所」を優先する、社会性を欠いた人種だった。
だが、この少女の「美」は、まだ肉の誘惑に勝てない。
終盤。椿が「完璧な詰み」という芸術作品を完成させようとしたその時、台所から俗世の報せが届いた。 「椿! 羊羹、もう切ったわよー!」
一瞬、椿の瞳が揺らぐ。今日の羊羹は、年に一度の「極上煉り羊羹」だ。 計算が始まった。美しく詰ませるにはあと三十分の長考が必要だ。だが、三十分待てば、羊羹の最も瑞々しい断面は酸素に触れて死に、母の胃袋に消える。
椿は、美を殺した。 美学の結晶を叩き壊すような、不格好で、最短で、無機質な勝利の一手を指したのだ。
「……負けました」 友治が投了する。しかし、勝った椿の顔に歓喜はない。彼女は絶叫した。 「こんなの、私の将棋じゃない! 羊羹に負けた! 私は、醜い!」
ギャアアアア! という鳴き声が座敷に響く。 母が飛び込んでくる。友治は現実逃避のために心の中で俳句を詠み始めた。私は呆れ、立ち上がる。
椿は泣きながら、崩れた駒を並べ直そうとしていた。羊羹を諦めてでも指すべきだった「正解の美」を再現し、自らを赦そうとしているのだ。その「自己満足への逃避」が、私には気に食わない。
ドバシャン!
私は、彼女が再現しかけた盤面を、前足で一気に薙ぎ払った。 「にゃあ」 (美を汚した自覚があるなら、二度とその手で触れるな)
私が爪で裂いておいた羊羹の包みを、彼女に見せつけた。中身は無残に空気に触れ、彼女が夢想した「最高の状態」はもうどこにもない。盤上でも、現実でも、彼女は敗北した。
その夜。 椿の部屋から、明かりが消えない。 彼女は自分の指先を、じっと見つめていた。カッターナイフで、羊羹を掴んだその指の腹を、薄く、薄く削っている。痛みなど感じていない。
「……クロ。私、もう羊羹はいらない」
彼女の声は、昼間の絶叫が嘘のように冷え切っていた。 瞳の奥で、湿った子供の感情が蒸発し、代わりに「銀色の毒」のような鋭い光が宿っている。
「美しく勝てない自分を、私は許さない。勝敗も、欲望も、全部この盤の上で『美』に変換してやる。AIが吐き出す無機質な正解を、私の美学で踏みにじってやるわ」
彼女は、散らばった駒の一つ、王将を強く握りしめた。掌から滲んだ赤い血が、木の駒に吸い込まれていく。 にゃあ。いいだろう。 ようやく、まともな「化け物」になったな。
私は彼女の足元で、静かに目を閉じた。 孤独な天才少女の、血塗られた審美の旅が始まる。
銀の毒、猫の爪 ―美しく勝てないなら、羊羹などいらない― Tom Eny @tom_eny
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