配信業をする氷河期世代のリアル

nco

第1話 いつも通りのなにもない朝

通話が切れたあと、部屋は少しだけ明るくなった。画面が黒くなり、反射で自分の顔が一瞬だけ映ったからだと思う。私はそれを見なかったことにして、スマートフォンを机に伏せた。


通話が切れる直前、彼女は何か言いかけていた。声の最後の母音だけが残り、通信音に溶けた。「今のはどっちだ」と考えたが、結論は出さなかった。通話は切れるとき、だいたいそういうものだ。


机の上には未払いの通知が三通並んでいる。封筒はどれも同じ大きさで、同じ色をしていた。私はそれを裏返し、何も書かれていない白を見る。白はいつも同じで、こちらを評価しない。


彼女と話しているとき、私は自分の声の高さを気にする。通話だと、少しだけ高くなる。意識して下げると、「怒ってる?」と聞かれる。怒ってはいないと答えると、「そういう言い方がもう嫌」と返ってくる。


彼女はAIの話になると早口になる。今日もそうだった。


「描いてきた時間を、何だと思ってるの」


私はその時間を軽んじるつもりはなかったが、説明はしなかった。


説明すると、だいたい悪くなる。私はそれを何度も経験してきた。説明は相手の想像力を奪う。想像力を奪われた相手は、たいてい怒る。


彼女は「会う話」を振ってきた。唐突に、というより思い出したように。私はその瞬間、部屋の隅に置いてある自転車を見た。タイヤの空気は、もう少しで抜けそうだった。


「今月はちょっと」と言うと、彼女は何も言わなかった。沈黙は三秒くらいだったと思う。通話の沈黙は、実際より長く感じる。


「またそれ」


彼女はそう言って笑った。笑い声は短く、すぐに消えた。私はそれを、怒りの一種だと理解している。


大学を出たあと、私は何度か「今月はちょっと」と言ってきた。就職活動のときも、配信を始めた頃も。その言葉は便利で、曖昧で、先送りができる。先送りは、私の得意分野だった。


彼女はイラストを描きながら通話をする。ペンの音が向こう側から聞こえてくる。今日はその音が途中で止まった。止まったとき、私は何か言うべきだったのかもしれない。


「ねえ」


彼女はそう言って、私の名前を呼ばなかった。名前を呼ばないとき、彼女はだいたい機嫌が悪い。「うん」とだけ答えた。


「別にいい」


別にいい、は良くない合図だ。私はそれを知っている。知っているが、どうすればいいかは知らない。


クレジットカードのアプリを開くと、利用停止の表示が出た。それは新しい情報ではなかった。画面を閉じ、また通話アプリを見る。彼女のアイコンは、そこに残っている。


「今日はもう描けない」


私は「無理しなくていい」と言った。その言葉が彼女にどう聞こえたかは分からない。私自身、どういう意味で言ったのかも、はっきりしなかった。


昼間に揉めた配信のコメント欄を思い出す。正しさの話をしていた。いつも通りの流れだった。私は少し勝った気分になり、そのあと何も残らなかった。


「AI使ってる人ってさ」


彼女はそう切り出し、途中で言葉を変えた。


「なんでも早く欲しがるよね」


私は反論しなかった。


反論には準備がいる。準備には時間がいる。時間はもう十分に使ってきた気がした。通話の残り時間を見て、私は何も言わなかった。


「じゃ、切るね」


彼女は返事を待たなかった。通話は一方的に終わり、画面が黒くなった。部屋が少しだけ明るくなった。


私はスマートフォンを伏せたまま動かなかった。時計の音がやけに大きく聞こえる。時間は進んでいるが、何かが近づいた感じはしなかった。それはいつものことだった。


彼女は今もどこかの部屋にいる。私も自分の部屋にいる。距離は変わっていない。通話が切れただけで、何も終わっていなかった。

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