おやすみなさい

夕暮怪雨

おやすみなさい

僕の彼女はある晩から眠れなくなった。いわゆる「不眠症」というものなのだろう。草木も眠る丑三つ時、心細くなった彼女は僕のスマホへ通話をかけてくる。

自分は朝から仕事だけれど、彼女と会話する朝方までのその時間。それに尊さを感じている。憐れみや苛立ちなど微塵もない。

ただ彼女の声を僕もずっと聞いていたい。ただそれだけだ。

「眠れないの……」蚊の鳴くような声で寂しげに、申し訳なさそうに言葉を発する。


「大丈夫だよ、僕が朝まで付き合ってあげるから」「ありがとう‥ごめんなさい‥‥」


「謝ることなんてないんだよ。今日は何を話そうか? 」


他愛もない会話を僕は一方的に投げかける。その度、彼女は言葉少なげに「うん」と頷き、声をあげる。

けれど、時間が経過し太陽が顔を覗かせると、彼女は一方的にプツリと通話を切ってしまう。そんな会話を何日も続けていた。

以前のように笑い声を発したり、冗談で返されることもない。僕はそんな一見、身勝手な彼女にも愛おしさしか感じない。この状況を家族や友人に打ち明けるつもりもない。僕と彼女の大切な時間なんだ。

どれくらいの月日が経ったのだろう。いつもの時間、彼女から僕のスマホに通話が来た。待ち構えたように通話画面をタッチする。

「ごめんね‥‥眠れないの‥‥」

「いいんだよ。今日は何を話そうか?」

いつも通りの掛け合いが始まる。これまた僕の一方的な会話だ。彼女は「うん‥」と普段より小さな声で頷く。

僕は明るく振る舞い、話しかけていく。けれども彼女の頷きがゆっくり減っていくのが分かった。そしてうっすらとカーテンから光が刺してくる。(もう日が昇ってきたのか)


彼女から一方的に通話を終える時間が近づいてきた。しかし、彼女は珍しく自分から言葉を紡ぎ、僕に声を投げかけた。

「ありがとう‥あなたのおかげでやっと眠れそう‥おやすみなさい‥‥ありがとう」

その声は悲しげに、後ろ髪をひかれるようだった。そのうちスマホ越しから彼女の懐かしい寝息が耳に入ってきた。

「やっと眠れたね、おめでとう‥そしておやすみなさい」

僕は静かに告げる。あれだけ毎晩続けた通話。初めて僕から通話を切った。


そしてその日以降、彼女から電話が来ることは無くなる。自分が愛した唯一無二の大切な女性。

そんな彼女が重い病で亡くなってから49日が経過した晩の出来事だ。

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おやすみなさい 夕暮怪雨 @yugurekaiu

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