第2話

 朝になって、洗濯機が自動運転を開始する。母さんが起き出した。

 顔を洗いに洗面所にやって来る。隅にある洗濯機の回転の中に僕はいた。

 屈んで顔を突き出し、スポンジを泡立てて母さんが洗顔する。回りながら、僕はそれを観察している。時々泡を指先で取って舐めて見たりする。

 朝は大忙しだ。アトピーがある姉二人にステロイドとたっぷりの保湿剤を塗って着替えさせ、卵焼きとベーコンとトーストの上にジャムを塗った朝食を作り与えてから、薬を飲ませ持ち物を確認した後、一番上の姉を父さんと一緒に学校へ送り出す。二番目の姉との残された時間で、彼女の言語訓練を行い、その後、ご飯をお弁当箱に詰めると持ち物を確認して、無い物を補充する。先週先生がオムツが無くなったって言ってたっけ。と母さんは思い出す。オムツの束を棚から取り出し、油性ペンで一つづつ名前を描いて行く。

 今日は着替えの補充もしなくてはならなかった。母さんは衣装棚から95センチのトレーナーを引っ張り出して、自分のカバンに詰め込む。

 二番目の姉に歯磨きをさせて上着を着せ、電動機付き自転車のバッテリーと荷物を持ったら出発だ。

 外に出て、家の鍵を閉め姉と連れだって歩く。僕は道の側溝の中の暗渠からそれを見守る。姉が走り出し、母さんが慌てて追いすがる。


「待って、危ないよ」


 3歳の姉は母さんの声かけを無視して先を走る。

 追いかけっこしながら自転車の置いてある駐輪場までやって来ると、姉を待たせたまま母さんはバッテリーソケットに僕ごとバッテリーを噛ませて装着させる。僕は潰れる感じを楽しんでから、そっとその場を離れた。

 姉にヘルメットを被せてバックルを留め、彼女を抱き上げて自転車のチャイルドシートに乗せる。シートベルトをして、スタンドを上げ、自転車は発進した。

 姉を保育園に送り届けてから、母さんは自転車に乗ったまま次に近所のスーパーへ向かった。手早く足りない食材を買い足して行く。スーパーの特売シールの裏側に、僕はへばりついている。

 会計を済ませて彼女は自転車でスーパーを後にした。チャイルドシートの上に僕が乗っていた。

 家に帰った母さんは、スーパーで買った葱やら豆腐やら鶏ひき肉やらを冷蔵庫に入れる。今日は豆腐ハンバーグだ。僕は中に紛れて、空の袋の底を泳いだ。それが済むと母さんはスマートフォンを取り出して副菜のレシピを検索し始める。副菜が決まると、母さんの手がタブを変える。

 青空文庫のページが開かれ、彼女が目を通し始める。円城塔の作品ページを読んでいた。

 蜻蛉日誌と題された小説には、【鴨川の石をすべてひっくり返してやろうという願をかけたのは、】から始まり、妹と存在しない<弟>との日々が綴られた日記のような形式の話が展開されていた。

 その行を母さんが追う。僕はそのテキストの端に座って彼女と視線を交わす。

【願のことは翌日には忘れてしまったが、中学生になってから、本当に鴨川の石を一枚一枚、ひっくり返して歩いた。なぜかそうした。弟はついぞ産まれなかった。生まれることもまたないはずである。いもうとはひとり、できていた。】

 目が合う。

 母さんの心臓がどきりと鳴る。

 見つかった。と僕は思った。母さんが微笑した。彼女は、僕を亡者と思わない。僕は亡者ではなく、生じなかったものとして認識される。

 彼女は画面を慈しみ撫でるようにスワイプすると、副菜のレシピへ戻って、キャベツとカニカマのマヨネーズ和えを作り始めた。

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