第3話:東への賭け

 俺はボーリンと視線を交わした。


(ライラが聞いたのと一致する。巡回隊が引いている……ただの噂じゃない)


「ライラがギルドで聞いた話と同じだ」


 俺は身を乗り出した。


「東の峠……巡回隊が逃げ出すほどの場所が、ただの噂話で済むか。これは金になる」


 ボーリンは短くうなずいた。


「幽霊になる手っ取り早い方法みたいだな」


 キールは言った。口調は軽いが、目がちらりと俺を見た。


「だが、巡回隊が怖がってるなら、ギルドは調査に高く払うかもしれねえ」


 エララは薬草から顔を上げた。目が細くなり、何かを計算している。


「脆い空気? 奇妙な臭い? ……聖穢せいえの兆候かも——」


「欠片……」


 胸が締め付けられた。


「危険だ。だが、もし女神の欠片が絡んでるなら、相当な金になる」


 エララはちらりと俺を見た。分かっている、という目だった。


(欠片……)


 本物なら、王国が殺し合うほどの値がつく。魔族との戦争で連中は必死だ——武器でも鎧でも、欠片が絡めば、特にでかいやつなら、金に糸目をつけねえ。


(だが、そんなことはどうでもいい。俺が欲しいのは銀貨だけだ。あと数ヶ月……息ができる)


 俺は仲間たちの目を見た。


「危険なのは分かってる。降りたいなら、それでいい。だが、俺にはもう選択肢がねえ。噂が本当なら、ギルドは依頼を出す。たぶん偵察だ。それだけでもそこそこの金になる。もし欠片だったら……かなりの金だ」


「明日ギルドに行く。これが本物か確かめる。誰か来るか?」


 沈黙。誰も断らない。


 やがて、エールを持って戻ってきたライラが肩をすくめた。


「ここで飢え死にするよりはマシさ」


 キールは一拍おいて、ただうなずいた。エララはため息をつき、薬草をしまい始めた。


 ボーリンは単に述べた。


「ギルドの依頼書を見てからだ。そこから危険度を測る」


(これで五人か。死ぬには十分な数だ)


 * * *


 目を開けた瞬間、冷気が肌を刺した。砦の石壁からにじみ出すカビのような湿り気。体の芯がきしむ。聖蝕の震えだ。焦燥と寒さが混ざり合い、体の奥で脈を打っている。


 俺とボーリンはギルドホールへ向かった。他の者たちとは、後で合流する手筈だ。


 寒さ。泥。いつもの砦だ。


 道行く連中、誰も目を合わせない。泥色の服、泥色の顔。


 亡霊だな。俺と同じか。


 カァン……カァン……


 かつて市場だった方角から、鍛冶の音。一軒だけ、まだ火が生きてる。熱い金属の匂いが、腐臭の中で妙に懐かしい。


(……頑固な奴だ)


 ギルドの書記官は、受付の後ろに座っていた。髭はきちんと整えられ、ベストはインクで汚れている。目は死んだ魚のように、光を映さない。


「昨夜、ある噂を聞いた」


 俺は荒い声で切り出した。書記官はゆっくりと顔を上げたが、その目は虚ろなままだ。


「東の峠の向こうだ。奇妙な光、死んだような静寂、巡回隊も避けている。——聖穢の兆候だ」


 書記官の指が止まった。ほんの一瞬。


「その話はあんたが初めてじゃない」


 一拍置いて彼は言った。声は、乾いた羊皮紙をめくるようにざらついている。


「それで?」


 俺が促した。


 書記官は瞬きすると、カウンターの下から厚い書類の束を引き出した。


「報告はいくつか受けている。だが未確認だ。ギルドは確証なしに正式な依頼は掲示しない」


「だが、何かをまとめているはずだ」


 ボーリンが静かに口を挟んだ。


 書記官は疲れたようにうなずき、二人の間で視線を動かした。


「内容は偵察。洞窟の測量と、『神の欠片』の探索。……あれば、だがな」


 彼は特定の羊皮紙を指で叩いた。


「まだ本決まりではない。斥候せっこうの帰還を待っている。今日の午後には準備できるはずだ」


「報酬は?」


「詳細な地域測量で銀貨五十枚。神の欠片を発見して位置を記録すれば、さらに百枚」


 書記官は間を置いた。


「完全な回収任務になればもっと出る。だがそれは全く別の仕事で、伴う危険も比べ物にならん」


(五十枚……!)


 心臓が跳ねた。


(山分けしても、数週間はこの震えを止められる……! しばらくは、息ができる……!)


 手が手袋の中で震える。午後まで待つ余裕はない。これを逃すわけにはいかない。


 俺は身を乗り出し、声を落とした。


「俺たちが受ける。最初の権利は俺たちだ。ここで待つ」


 書記官は二人を値踏みするように見た。その視線は俺の手袋をした左手に、そしてボーリンの顔に刻まれた疲労に留まる。


 切羽詰まった奴の顔だ——そう思われたんだろう。


「正午過ぎに戻ってこい」


 彼はついに言った。声には哀れみに似た何かが混じっている。


「依頼が上がれば、あんたたちのものだ」


「峠が開く直前から続いてる話だ」


 ボーリンが静かに言った。書記官にではない。俺に。


 偶然じゃない。何かある。


 書記官は興味を失ったようにうなずき、終わりのない書類作業に戻った。


「いや、俺が残る」


 俺は眉を上げた。


「俺たちがいなければ、他の誰かがこの仕事を持っていく。それだけだ」


 ボーリンは書記官を見据えたまま述べた。


「お前は行け。休め。他の連中にも知らせろ。俺が誰も割り込ませない」


 反論しかけた。だが、聖蝕の骨髄まで染みる冷たさが、内側から俺を削っている。眠りは——たとえ一瞬でも——あまりに甘美だった。


「すまんな……ボーリン」


 * * *


 正午過ぎにギルドホールに戻ると、ボーリンが石の歩哨ほしょうのように書記官の机の近くに立っている。彼は俺の目を捉え、ほとんど分からないほど小さくうなずいた。


(掲示されたか)


 冷たく鋭い安堵が、疲労を貫いた。


 書記官はさらに憔悴しょうすいした様子で、ため息をつく。


「依頼が上がった。東の峠の偵察任務だ」


 親指で掲示板の方を指した。そこには新しい、急いで走り書きされた羊皮紙が掛かっている。


「詳細は記録済みだ。あんたたちのものだ」


 俺は掲示板へ向かう。


 東の峠。偵察。測量。神の欠片の可能性。標準ギルド料金。


 書記官が差し出した鈍い炭の筆記具で、仲間たちの名前を署名した。羊皮紙を擦る炭の音が、妙に大きく響く。


(これで決まりだ。後戻りはできねえ)


 命を賭ける契約。だが、これがなければ、どのみち死ぬ。


 * * *


 窓の外が暗くなっていく。


 仲間たちと短く会い、詳細を伝えた。いつもより口数が少なかった。


 夜明けに出発する。


 * * *


 その夜遅く。砦が静まり返った頃。


 きしむ木材。遠い酔った笑い声。壊れた軒を通り抜ける風の音。


 ノックの音が、俺の部屋のドアを控えめに叩いた。


 急かすでもなく、ただ……そこに在る。


 俺は動かず、何も言わなかった。


 ドアがきしみながら開く。彼女が入ってきた。肩をわずかにすぼめ、マントは霧で湿っている。


 何も言わず、背後でドアを静かに閉じた。そして、いつものように、二人の間の空間を渡る。躊躇ためらわず。尋ねず。


 十年。俺たちはずっとこうだった。


 彼女の腕が俺の首に巻きつき、そのキスは激しく、古いエールと彼女自身の味がした。


 俺は彼女に導かれ、狭い簡易ベッドに倒れ込んだ。木枠がきしみ、重さに抗議した。


 言葉を交わすことのない儀式だった。


 彼女は沈黙のうちに服を脱ぐ。ゆっくりでも、誘惑的でもない。ただ、一枚また一枚と。川石の首飾りだけが残り、蝋燭の光を受けて揺れていた。


 熱があった。確かな重みがあった。互いの体を、十年かけて覚えてきた。どこに触れれば彼女が息を呑むか、どう動けば俺が震えるか。


 途中、彼女の手が俺の顔に触れた。一瞬だけ。頬を確かめるように。


(……何だ、今の)


 考える前に、彼女はもう動いていた。


 ライラの手が俺の肩を掴む。一瞬、その握りが強まった。唇が動いた——何か、言いかけた。


 だが、声にはならなかった。


 俺も尋ねなかった。


 二人の間の空気は濃く、息苦しく、湿ってまとわりつく。彼女の動きは激しく、求めるようで、俺はそのリズムに応えた。


 彼女が最初に震えた。鋭い息が喉に詰まり、体が弓なりになる。俺もすぐ後に続いた。彼女の温もりに埋もれ、息を震わせながら。


 彼女の頭が、俺の肩の窪みに落ちる。


 一瞬——本当に一瞬だけ——何かが表面に浮かびかけた。彼女の指が、俺の首筋に残っている。離れようとしない。


(……疲れてるのか)


 俺は口を開きかけた。


 何を言おうとしたのか、自分でも分からない。


 だが、その前に彼女は立ち上がった。沈黙のうちに服を着た。マントを羽織った。


 ドアのところで、彼女は立ち止まった。振り返り、再び近づいてくる。


 身をかがめ、そして——いつものように——俺の額に唇を押し当てた。


 柔らかく。ほとんど、吐息のように。少しだけ、長かった気がする。


(……気のせいか)


 それから彼女は去った。掛け金がカチリと閉まる音が響く。


 俺は再び一人になった。


 * * *


 天井を見上げる。馴染み深い亀裂が、薄暗がりの中で暗い血管のように走っている。


 熱は確かにあった。繋がりも。だが、彼女が去った瞬間、部屋の冷たさが、急に重くなった。


(……何だったんだ、あれは。彼女の手が……)


 何かが、ほんの少しだけ、いつもと違った気がした。


 だが、俺にはそれが何か分からない。


 彼女の香りだけが残っていた。煙と汗……そして、塩気。


(……汗だろ)


(明日は峠か)


 左手が震えている。聖蝕は待ってくれない。


 それでも、俺は行く。


 他に選択肢はないのだから。

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