第2話:蝕まれた男

 冒険者のとりで——現在

 女神たちが堕ち、砕け散ってから約1820年後


 * * *


 ギルドホールの空気は、すすと汗と薄めたエールで腐っていた。


(また始まったか、この聖蝕せいしょくめ)


 左手を握りしめる。骨の奥で、冷たい炎が燃えていた。


 女神の穢れ。世界が壊れた日から誰も逃れられない呪い——だが、俺のは進みが早すぎる。


(ガキの頃、親父の欠片狩りを手伝ったツケだ。高い報酬には、それだけのリスクがつきもの。当然の話だろ)


蝕止しょくどめの残りも、もうわずかだ)


 上着の内側、革袋の軽さが腹に重い。魔族の血から絞り出す薬——あれがなくなれば、俺は終わりだ。


(金がいる。今すぐに)


 俺は壁一面の掲示板へ向かった。傷んだ羊皮紙が、端から端まで貼り付けられている。護衛依頼、変異獣の賞金首、必死の申し出。誰も見向きもしねえ依頼の墓場だ。


 冒険者たちが集まっている。擦り切れた革、錆びた鎖帷子くさりかたびら。小声で情報を交換し、互いを値踏ねぶみしていた。


 何人かの顔には、俺と同じ色が浮かんでいる。微かな震え。青白い疲労。


(仲間、か。冗談じゃねえ)


 俺はただ、仕事を狩りに来た。


 視線が掲示物を追う。わずかな報酬は飛ばし、この痛みをしばし遠ざけるだけの銀貨を約束する依頼を探した。


「……やっと戻ったか、アーレン。どっかで骨でも埋めたかと思ったぜ」


 ざわめきの中から、乾いた声が届く。


 ライラだ。


 掲示板にもたれ、腕を組んでいる。日に焼けた金髪。実用一辺倒の革鎧。いつもの半笑い。


 近くの連中が何人か、ちらちらとこっちを見ていた。ライラを、だ。俺じゃない。


 首には、擦り切れた革紐に通された川石。


(……十五年か。まだ着けてやがる)


 すぐには目を合わせなかった。掲示板を睨む。習慣だ。希望なんかじゃない。


「金になる仕事はあったか?」


 掠れた声で尋ねた。


「それとも、いつものネズミ退治かカブ畑の見張りか?」


「さあね……」


 彼女は長いため息をつき、掲示板から身を起こした。


深層域しんそういきでの精髄集め? 死にに行くようなもんだ。害獣駆除? 鼻垂はなたれ小僧にでもくれてやれ……ああ見ろよ、あたしのお気に入りだ。パン一枚のはした金がねで、腐りかけの荷車を隣のクソ町まで護衛しろ、だとさ」


 彼女は言葉を切り、横目で俺を見た。


「ああいう依頼がどうなるか、あんたが一番よく知ってるだろ?」


(……また、か)


 腹の底で、古い石が転がる。


 塵渓ちりたに。約十五年前。俺は若かった。悪い情報を信じて、ルートを変えた。盗賊が待ち伏せていた。


 隊商たいしょうは全滅。彼女の両親も。


(ああ、分かってる。俺のせいだ。いつもの話だろ)


 十五年だ。痛みはもう体の一部。骨みたいなもんだ。今さら、どうしようもない。


 ただ——左手が、また震え始めていた。


 その時、ライラが俺の手首を掴んだ。素早く。驚くほど強く。


 ——意識が、戻る。


(……こいつ)


 俺は視線を落とす。ライラは視線を受け止め、いつもの半笑いが一瞬だけ別の何かに変わった。


 すぐに消えたが。


「ろくな仕事も見つからねえうちに、あたしの前でくたばる気か。その震え、ちっともマシになってないじゃないか」


 答えを待たずに続けた。


「でもさ、あんたがいない間に面白い話を聞いた」


 声をわずかに落とす。


「東の峠の話。巡回隊も避けてるってさ」


「巡回隊が?」


「ああ。奴らが言うには、空気が硝子ガラスみたいにもろくて、肌を何かがうような気がするって。静かすぎて、世界が息を潜めて聞き耳を立ててるみたいだって」


(巡回隊が避ける場所——)


 危険。つまり、金になるかもしれない。


「静かすぎる?」


 俺は繰り返した。手の震えも忘れていた。


「他には?」


「たぶん、ただの神経過敏と悪いエールのせいさ」


 ライラは肩をすくめる。その動きで川石が揺れた。


「でも……気になった。ここの掲示板を眺めてるよりはマシだろ」


(東の峠、か)


 俺は短くうなずいた。


「『すずへこみ亭』だな。ボーリンと他の連中が何か聞いてないか確かめよう」


 * * *


 寒さ。そして、泥。


 道と呼べるものは泥沼に消えていた。タールのように濃く、粘つく茶色。荷車が刻んだ深いわだちは、悪臭を放つ水の溝と化している。


 ブーツが水しぶきを上げ、冷たい泥が熱を奪っていく。


(へっ、この砦も俺も、お似合いだ。どっちもゆっくり腐っていく)


 『すずへこみ亭』の重い木戸を押し開けると、きしむむ音が響いた。湿ったよどんだ空気が顔に当たる。


 安エールの酸っぱい臭い、汗、決して乾くことのない衣服の湿った羊毛。この店も、ここにいる奴らも、全部腐ってやがる。


 床は泥で滑り、粗削りのテーブルは何年も粘ついている。客はまばらで、低いつぶやき、サイコロの言い争い、酒を求める声だけが響いていた。


 近くのテーブルで、木こりたちが疲れた声で不平を漏らしている。


黒樹村こくじゅむらの方で、何か変なことが起きてる。あの忌々しい湖のせいだ……人々が病気になり始めてる」


「病気だと?」


 大柄な男が鼻を鳴らした。


「てめえはいつも何かのせいにしてるな。ただの仕事嫌いだろ」


 キールとエララは、すでに奥の隅のテーブルにいた。ライラは酒場のカウンターへ向かう。


 キールは赤ら顔で、すでに半ば酔っている。


「……まともな契約が一つもねえ! ネズミの皮剥ぎと肥溜めの見張りだけだ!」


 錫の杯を叩きつけ、エールを飛び散らせた。


 エララは彼の横で静かに座り、粘つくテーブルの上に広げた清潔な布の上で、医療器具を丹念に磨いていた。


(この汚ねえ酒場で、あの潔癖は相変わらずか)


 銀の耳飾りがランプの光を鈍く弾く。聖庁都の紋章。あの街から何で逃げてきたのか、俺は聞いたことがない。聞く気もない。


「アーレン! ライラ! やっと来たか!」


 キールが怒鳴り、さらにエールをこぼした。


「何か見つけたか? それとも俺たち勇者は、糞荷車の見張りのままか?」


「割に合う仕事は、何一つ無かった」


 俺は短く答え、ライラの横のベンチに腰を下ろした。


「やっぱりな!」


 キールは再び杯を叩きつけた。テーブルが揺れ、エララの道具が跳ねる。メスがチンキ剤ちんきざいの小瓶に当たり、危うく倒れそうになった。


 エララは素早く手を伸ばし、小瓶を掴んだ。氷のような視線でキールを射抜く。


「いい加減にしなさい、この酔っ払い」


 低く、張り詰めた声だった。


 キールはニヤリと笑う。


「おいおい、美人にしてはずいぶん口が悪いじゃないか」


「なら、もう一度私の道具に触れてみなさい。次の薬に『間違えて』影蔭草かげかげそうを混ぜてやる。お前の内臓がさぞ『美しい』ことになるでしょうね」


 キールの顔から笑みが消えた。


 その時、ボーリンが音もなく俺の隣の席に滑り込む。油紙の包みをエララの近くに置いた。


「薬草だ」


 エララはそれを取り上げる。


「今回は良質?」


 ボーリンは短くうなずく。


「十分だ」


(十分、か。この男にすれば、稀な高評価だな)


 カウンターから、ライラの声が飛んできた。


「おいグロク、てめえのションベンが入ってねえ酒は無えのか?」


 山のようなバーテンダーが、ニヤリと笑った。


「ライラみたいな上等な女には、特別なのを隠してある。高くて、硬くて、可愛い口専用の逸品だ」


 ライラの唇に薄笑いが浮かぶ。彼女は少し身を乗り出した。


「へえ、四十年ものの古漬け。そんなのが、あたしみたいな可愛い口に注がれるのを待ってたってわけ」


 バーテンダーが大声で笑った。


「ハッ! 失せろ、ライラ。エールが欲しいのか欲しくないのか?」


(いつかあの口で、本物の厄介事を呼び込むだろうな)


 俺は鼻から息を吐いた。


 その時、喧騒の向こうから、砥石で擦るようなしわがれ声が響いた。


(……ヨルンの爺か)


 あの声を聞き間違える奴はいない。


「——三日前だ。東の尾根の近くでな。何かを感じた」


 酒場のざわめきが、一瞬止んだ。


「空気が薄くなった。寒さで歯が痛んだ。すべてが……止まった」


 ヨルンの視線は遠い。焦点が合っていない。


「鳥もいない。虫も鳴かねえ。ただ沈黙。骨の髄まで染みるような、おかしな種類の沈黙だ。ギルドの巡回隊は今、あの尾根を避けてるって話だ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る