物語を聞かせて【短編】

司村啓大

物語を聞かせて

 俺は死体が本物かどうか、すぐ分かる。

 本物の死体、死者には物語がある。終わりの物語が。

 俺の母でそれを学んだ。

 母の死体を見つけたのは俺で、検視解剖やらなんやらで母は切り刻まれて「どうやら病死です」などと言われ、面白くないから言わなくていいよ、となんだか苛ついたのを覚えている。


「……やったのは私じゃないの、千一楼」

 懐かしい声で九重利沙が俺の名を呼んだ。母が、アラビアンナイトが好きだったから俺にこういう名前を付けたのだ。


 俺が見つけたとき、母は生から死へとみるみる移行し、死んだ、とはっきり分かるまでの過程を見せてくれた。そのせいで俺は映画など見ていても、どれほど進んだメイクやCG、AI加工、そう言ったもので造られた死体を見ると醒めてしまう。そこに物語が見いだせなくなってしまう。


 母を殺したのは当然、俺じゃない。

 その一片の曇りもない真実も疑われたのを覚えている。

 疑う方も仕事だから、とやっていたのも分かっているし、俺を傷つけないようにもしていて、疑ってなどいないよ、念のためにね、そんな感じだった。


 伊沢巧の胸に包丁が突き立てられ、リビングの床は、まだ流れ続けている血液が広がり始めていて、そして九重利沙の寝間着、ジャージの上下を染めつつある。大きく開いた前から、乳房が見え隠れする。下も履いていないという気がした。下着の線は浮いていない。


 俺は九重利沙に捨てられた男だった。

 酷い捨てられ方だった。俺とはもういたくない、別れを告げられ、そしていなくなった。俺は体の関係一つ持てないまま九重利沙に捨てられていた。だから九重利沙の乳房を目にするのは初めてだった。

 自分でも驚くほど、なんの感慨もない。


 語り手の乳がでかかろうと小さかろうと、きれいだろうと汚かろうと、そんなものは物語には一切関係ない。むしろ雑音に思える。


「私が殺したわけじゃないって信じるわよね、あなたなら」

 そう言う。そして俺は信じることにする。その血まみれになった九重利沙の両手を見ても信じることにする。いつだってそうしてきた。


 九重利沙の言うことを全て信じるのは俺くらいのものだった。

 この女は嘘ばかり言って、そしてどんな荒唐無稽な嘘でも俺は信じてやった。そこに一つか二つばかり真実があって、その真実を膨らませようと必死になって虚勢を張り嘘を吐き続ける九重利沙が、とても好きだった。


 絶え間なく紡がれる嘘は物語を聞かされているようで心地よかった。

「伊沢巧を殺したいほどの動機って利沙にある?」

 そう訊く俺は、そんなわけないけど一応、と母の死について訊いてきた警官と同じ顔が出来ている。そういう顔をすればいいと学んでしまっている。そして相手はぺらぺらと、舌をよく動かしてしまう。


「結婚準備までしてたのよ」

「オートロックと監視カメラが万全で、二十四時間、警備員が常駐している、この随分高級そうなマンションに誰か侵入した、って例はあるかな」

「これが最初の例になるわ」


「この部屋の鍵は指紋認証でディンプルキーの二段構えだ。どうやって入ったのか意見を聞きたい」

「ベランダからじゃないかしら。鍵は開けてるのよ、三十階でしょ、ここ。虫も入ってこないし、人も入ってこないと思うし」

 九重利沙は嘘を言う。真実を混ぜて。


「開けていたのは? 寝室かな」

「ええ、そうよ。夏だもの」

「エアコン代をけちるようには見えないけどね」

「風を混ぜた方が気持ちがいいの。けちるどころか贅沢よ。ずっと稼働させているんだもの」


 今は深夜の三時だった。九重利沙から生々しい情事の匂いが漂ってきている気がした。ここはリビングで寝室ではなくて、風は吹き込んでこないから、部屋いっぱいに満ちていたかもしれない。伊沢巧の、大量の血液さえなければ。


「警察を呼ぶべきだね」

「先にあなたを呼んだのよ。あなた警察嫌いでしょ?」

 珍しく本当のことを言っている。嘘まみれになった九重利沙の真実を見つけて、それを愛おしむのが俺は好きなのに。


 九重利沙の嘘を剪定しようなんて俺は思ったことがない。その真実は嘘に包まれているから愛おしく感じた。

「私は殺してない。巧を殺したいなんて思ってる相手にも心当たりはないわ」

「訊く前に言ってくれて、ありがとう」


 俺を犯人に仕立て上げようとしているのかな? と思った。九重利沙の嘘を見抜きながら捕まってもいい、なんてのは俺ぐらいしかいないだろう。そしてきっと九重利沙は、周囲に嘘をまき散らし、俺に全ての責任をおっかぶせて、その嘘をみんな信じるだろう。


「……利沙は寝ていて、喉が渇いて起きて、隣には市殻巧はいなくて。リビングに何か飲みに来たらこうなっていた、でいいんだっけ?」

 なるほど、アイスペールがある。


「付け足すけど、寝室に敷いてある絨毯はとてもふかふかで足音なんか出ないの」

 重ねてきたなあ、と俺は思う。

 嘘から嘘へ、また嘘へ。跳ぶための足がかりは小さな真実。


 映画の中で、回想シーンの中で回想シーンが繰り返されるみたいなもので、何が何だか分からなくなってしまう。そういう、入れ子構造はアラビアンナイトで頻発する。母が読ませてくれたのだけれど、本当に、今、何の話をしていたんだっけ? と忘れてしまうのが、あの物語の構造だった。


「……アラビアンナイトの話ってしたことあったっけ?」

「しらないわよ、そんなの。あなたが何か話してくれたなんて覚えがない」

「あの適当な感じ、今どきじゃ出来ないよ」


 そう、適当。あれが最高。俺の読書体験は歪んでいる。

 特に工夫するまでもなく、こんなもの九重利沙が殺した、という話にする方が完全にまとまりがいい。でもそれをめちゃくちゃにしようとする九重利沙が、俺は好きだったのだ。今でも、好きだ。

 それにそれに。まだお話は終わったわけではない。


「死んでいて、びっくりして、俺に助けを求めた?」

 黙っている。

 その辺はまあ、どうでもいい。ここまで来るのに俺はスクーターを使ったし、俺の数少ない趣味性が反映された、それなりにスピードが出るイタリア産まれのスクーターで、深夜なので結構、飛ばせた。それで大体、四十分ほど。


 死んでから一時間くらいか。

 九重利沙は俺のスクーター趣味を知っている。こんな時間でも移動手段があって、呼べば最速で来るのも分かっている。一時間もしないなら、死亡推定時刻と俺の動きは、ぎりぎり誤魔化せるような気がする。


 発信、着信の履歴や理由はどうでも言い繕える。そこは九重利沙の得意技だ。

 俺はやっと足首まで泥に入り込んだという感じだった。

 必死になって利沙は俺を引き留める。俺は九重利沙の話を聞いてあげる男だ。そして始まる九重利沙の物語。懐かしい。もっと聞いていたい。


「犯人はどうやって逃げたんだろうね?」

「寝室からまたベランダに」

「ふかふかだったね。気配も足音もしないよね」

 でも扉の音はする。


 寝室からリビングの間には、扉がある。半開きの扉は、微かに軋む音がする。気づかないふりをして、どれだけ付き合っていられるかにのめり込んでしまう。それに嘘とは限らない。九重利沙の物語には小さな欠片でも何処かに真実がある。


「どうして伊沢巧は殺されたんだろう。殺すなんて、実行するよりも心理的な難しさがある。人を殺すなんてそうそう出来ない。感情的になったにしては、侵入や実行の仕方が込み入っている、気がするんだよね、利沙」


 少し合いの手。取り繕うための材料。嘘の種。

「恨まれていたのかも。なんだか最近、変な仕事に手を出していたのかもしれないし。こんないいマンションに住むには若すぎるし。巧は、動画サイトかなんかでとても儲かっていたみたいだし」


「どんな仕事か詳しく聞きたいんだけど」

「そんなの興味なかったし。巧の仕事なんて、そんなもので好きになったんじゃないもの、私」

 結婚準備までしてたのに?


 これは言い過ぎなのも俺はちゃんと分かっている。利沙の言葉は推測だけで出来ていてなんの言質を取りようもなくて、そういうところがやはり上手で、俺は聞き入ってしまう。

 俺は物語に飢えている。

 退屈で刺激のない、砂漠の昼と夜の中、何かを聞かせて貰いたがっている。


「……結婚しよう、まで思った理由ってなんだい?」

「色々あるけど、あなたとは違うからかしらね」

「俺にあてつけなくていいけど、まあいいや。きっと巧って人は、利沙に優しかったんだろうしね」


「あなたは残酷過ぎたのよ、私に」

「そうかもしれないって、いつも思うよ」

「あなたは、どんな女と出会っても残酷になると思う。自覚、ないでしょう? あなたにあるのは、あとから沸いて出る粗探しだけでしょう?」


「自分の粗探しはするね、確かに」

「自分だけなのよ、あなたは。他人から何か聞かせて貰ってるだけ。自分の話なんてしようともしない。そしてこっちはね、どんどん虚しくなってくるの。さぞかしあなたの作る話はご立派なんでしょうねって苛立ったりするの」


 俺に大した物語なんてありはしない。考えようとは思うけれど、いつだって空想の翼は広げられなくて、そして一晩も二晩も、無数の夜を過ごして「あっ」なんて言って閃いたときには、聞かせる相手なんか誰もいないし、すぐ忘れてしまう。


 ただ、ただ、聞き続ける。構造どころかオチまで見抜いているというのに、興味深げに聞いてしまう。そして時折、思うのだ。そういう俺に必死で応えようとして、利沙は嘘に嘘を重ねていたのかもしれなくて、遂に話す物語が尽きてしまって、だから逃げようとして俺を捨てたのではないのだろうかと。


「……伊沢巧って人は、優しかったわけ?」

「ええ。きちんと私に、嘘はもう吐かなくていいって言ったもの」

 そりゃまた。


 物語師に一番言っちゃいけないことを、言ったもんだ。刺されても仕方がない。お前の話は安っぽくて嘘まみれで聞いちゃいられない、そんな残酷なことを言うなんて。黙って聞いていた俺より残酷な気がする。


 でもひょっとして、そこだけを何とか乗り切ったら、むしろ優しかったことになるんだろう。そんな風にして、胸に包丁を突き立てられていなかったら。偶然のただ一回でくじ引きにさえ勝っていたら、九重利沙は物語を紡ぎ続けるという地獄から解放されていたのかもしれない。


「俺なら、刺せるかなあ? あんなに深々と」

「あなた、鍛えているじゃない、趣味で」

「うん。筋トレは好きだよ。それなりに自信もある。それでも、あんなに深く刺せるなんておかしいのさ。ちょっとした力持ちじゃあんなこと出来ない」


「あなたが嫉妬して、それで異常な力が出たのよ」

 俺に聞かせる物語じゃない。他人に聞かせる物語になってしまっている。

 もっと俺に話を聞かせてほしい。もっと。

 俺は物語に飢えている。


「……あなたといると何か喋らなきゃ、何か言わなきゃ、って苦しくなる。残酷だって自覚はないの? あなたはまたそうやって、色んな女性を苦しめる。そしてそういう女性にしか興味がないのよ、あなたは。変なことで逆上して、人を殺しかねない女ばかりにしか興味がないって自覚ある?」


「俺はまだ利沙のことだけが好きだ。俺は利沙の顔だのスタイルだの性格だの、そんなものは好きじゃない。ただただ物語に飢えている」

「だから呼んであげたのよ、ここに。どんなに破綻していても、あなたは私の言葉を受け入れる。喜びなさい、あなたに終わりを渡すのだから」


「ピリオドは付けたくないよ、話が終わるのは寂しいからね」

 それが千日、毎夜毎夜でもずっと聞かせてほしい。

 せめて警察が来る前に終わりにしよう。その方が俺好みだ。がやがやと新しいのが入ってきて、またそいつらに同じ話をして、そんなものを聞かされるのはうんざりだ。


「……警察なんて、野暮な聞き手だよ。粗探しばっかりする客だよ。物語を剪定して賢しい顔をしたがる、評論家ヅラしためんどくさい聞き手だよ」


 俺は利沙を愛している。

 今だってそうで、これからもそうかもしれない。

 こんなに面白い物語師が他にいるとは思えない。


 茶番が過ぎて本当に楽しい。この出血量は見た目よりとてもおとなしい。包丁でぶっ刺したのならもっと部屋中に血が跳ね回る。心臓というポンプが暴れ回ってまき散らす。心臓が他の何かで既に止まっていたなら、それからついでに包丁を刺そうと物静かに血は流れていく。


 それにそもそも、入りが浅い。多分、包丁は心臓を掠めるていどにしか沈んでいない。これは困った。そんなことに気づいてしまうと、俺は考えが纏まらなくなる。

 そういう俺を九重利沙は満足げに見ている。


「これ面白いでしょう? 面白いって言って」

「全部、俺のために用意した物語?」

「私、いつまでもあなたにそう言われたくて。別れようと捨てようといつまでも、あなたの拍手だけ嬉しくて。それなのに地獄にいるみたいな気持ちになって」


 旅のヒマ潰しに聞くにはとても良かった。

 このぐらいで丁度いい。利沙はとても頑張った。

 だから拍手に値する。こんなに頑張って稚拙な嘘を続けたなんて、まともな人間には絶対に出来ないというのに。


 もうじき夜明けで、砂漠なら出発する頃合いだ。

「……もっと、物語はないの、利沙?」

「これ以上はもう無理よ」

「でも聞かせたくて呼んだんだろう?」

「私にこれ以上、まだ嘘を言えって?」

「でも、嘘は得意だろ?」


 間違えた。嘘と言ってしまった。

 九重利沙は「やっと言わせた」みたいな満足げな顔で、包丁を伊沢巧の死体から引き抜いている。その刃物を首筋に当てている。また好きになってきた。

「もうあなたに話すことなんて残ってないの。話す地獄は終わりなの」

「うん、また話が出来たら、またおいで」


 物語は佳境を迎えピリオドが赤い色で打たれてそれでも俺には届かない。

 最前席でも舞台には手が届かないし、届いてしまうのもつまらない。

 だから充分に距離は空けていた。

 九重利沙がびくびくと痙攣し物語の終わり声なく紡ぎ続けていて、俺は拍手をしたくなっている。喋らないで話を終わらせるなんて天才じゃないかな。


 九重利沙の話もこの状況も、砂漠の旅で聞かされる物語なら筋は通っている方だ。はっきり読み取れないまま話が終わるなんてアラビアンナイトじゃいつものことだ。

 ぱちぱちと、おざなりに拍手した。

「……終わっちゃったなあ、利沙の話」

 なんだかつまらなくなってきたから拍手にも身が入らない。


 何か聞こえる。呻き声。伊沢巧の声っぽい。

 実は死んでなかったとかなんとか? 酷く耳障りだ。横から割って入ってくるな。九重利沙の舞台を汚さないで欲しい。迷惑な客もいたものだ。


 どうでもいいので無視する。それではそろそろ、出発しよう。

 そして次の夜には、また誰かが話を聞かせてくれたらいいのに。

 それが千日続いても、喜んで俺は聞き続けるから。

 深く深く偵ってあげよう。

 つまらなかったら、殺すけど。

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