第2話 憂鬱な婚約者と前世の記憶
「――はぁ、はぁ……」
アークライト公爵邸の自室。俺はベッドの上で肩で息をしていた。
先ほど、喉が裂けんばかりの絶叫を上げたせいで、喉がヒリヒリと痛む。
周囲を見渡せば、執事のセバスチャン、母であるベアトリス、そして数人のメイドたちが、心配そうに、しかしどこか興奮冷めやらぬ様子で俺を見守っていた。
「坊っちゃま、落ち着かれましたか? お水をどうぞ」
セバスチャンが差し出した銀のゴブレットを受け取り、俺は水を一気に煽った。
冷たい水が食道を通り、カッカと熱くなっていた頭を少しだけ冷静にさせる。
俺は深呼吸を一つして、問いかけた。
「……セバス。もう一度、詳しく聞かせてくれ。リリアーナ殿下……いや、王家の方々は、一体どういう理屈でこの婚約を認めたんだ?」
俺の声は、自分でも驚くほど低く、震えていた。
セバスチャンは居住まいを正し、誇らしげに語り始めた。
「はい。リリアーナ殿下が仰るには、ヴィンセント様のあの謝罪……地面に額を擦り付けんばかりの、あの姿に、これ以上ない『誠実さ』と『覚悟』を感じたとのことです」
「……覚悟?」
「ええ。『自らの非を認め、身分やプライドをかなぐり捨ててまで相手を慮る。その高潔な魂こそ、未来の国を背負う者に相応しい』と。殿下は国王陛下に対し、涙ながらにそう訴えられたそうです」
俺は頭を抱えた。
違う。そうじゃない。
あれは「高潔な魂」なんかじゃない。
30年の社畜人生で培われた、「とにかく謝ってその場を収める」という、悲しき処世術だ。
プライドを捨てたのは事実だが、それは相手を慮ったからではなく、単に自分の保身のためだ。
「さらに殿下は、こうも仰ったそうです。『ヴィンセント様は、私の言葉一つ一つに真摯に耳を傾け、深い沈黙をもって受け止めてくださいました。あのような思慮深い殿方は、同世代にはおりません』と」
「…………」
それは、俺が話を半分聞き流して、晩飯のメニューを考えていた時間のことだろうか。
俺の無関心な沈黙を「思慮深い」と解釈するとは。恋は盲目と言うが、リリアーナ王女のフィルターは高性能すぎて現実をねじ曲げているらしい。
「国王陛下も、その熱意と、何よりあのアークライト公爵家の嫡男がそこまで殊勝な態度を見せたという事実に感銘を受けられ、『これぞ運命』と即断されたのです」
セバスチャンは感極まったように目頭を押さえた。
母様も「ああ、なんて素晴らしいの」とハンカチで涙を拭っている。
俺は呆然とした。
俺の生存戦略である「土下座外交」が、まさかこんな特大のブーメランになって返ってくるとは。
「悪役ムーブ」を回避するために「善人ムーブ」をしたら、斜め上の方向へ全力疾走してしまったようだ。
「しかし……まだ俺たちは8歳だぞ? 婚約なんて、早すぎるんじゃないか?」
俺は最後の望みをかけて、常識的な反論を試みた。
前世の感覚で言えば、小学2年生で婚約など正気の沙汰ではない。
だが、セバスチャンは涼しい顔で首を振った。
「何を仰います。王侯貴族の間では、才覚ある者は早くから身を固めるのが通例です。現に、第一王女殿下も10歳で隣国の王子との婚約が発表されました」
「う……」
「それに、我がアークライト家は建国以来の筆頭公爵家。お相手が第三王女殿下であれば、家柄的にも全く問題ございません。むしろ、これ以上ない良縁。断る理由など、天地がひっくり返っても見当たりませんな」
セバスチャンの言う通りだった。
この世界――『セイクリッド・アカデミー』の世界観では、貴族の婚約は政治であり、早期の囲い込みは戦略だ。
公爵家の嫡男と王女の婚約。
側から見れば、完璧なサクセスストーリーだろう。
「皆様、大喜びですよ。使用人たちも、領民たちも、坊っちゃまの快挙を祝って宴の準備を始めております」
「宴……」
俺の胃がキリキリと痛み始めた。
周囲の期待が重い。重すぎる。
俺はただ、静かに暮らしたいだけなのに。
社交界とか、派閥争いとか、そういう面倒なことには一切関わりたくないのに。
「……少し、一人にさせてくれないか」
俺は力なく言った。
「おや、いけませんな。これからお祝いの晩餐会がございますのに」
「母様、お願いです。……頭の中を、整理したいんです」
俺が懇願すると、母様は心配そうな顔をしたが、やがて優しく微笑んだ。
「そうね。あまりに急なことで、ヴィンセントも驚いたのでしょう。……いいわ、少し休みなさい。でも、無理はしないでね」
「ありがとうございます」
母様たちが部屋を出ていくと、ようやく静寂が訪れた。
俺はベッドから這い出し、姿見の前に立った。
鏡に映っているのは、豪奢な部屋着を纏った8歳の少年。
プラチナブロンドの髪はサラサラと流れ、肌は陶器のように白い。
そして何より特徴的なのは、その目だ。
アイスブルーの瞳は、切れ長で涼しげだが、どこか冷ややかで、他人を寄せ付けない鋭さがある。
「……完璧な『悪役顔』だな」
俺は自嘲気味に呟いた。
黙っていれば絵になる。冷徹な貴公子、氷の美少年。
だが、その中身は30歳の庶民オタクだ。
スーパーの半額弁当に喜び、休日は一日中パジャマでゲームをして過ごすような、冴えないおっさんだ。
「こんなのと、あのキラキラした王女様が釣り合うわけないだろ……」
リリアーナ王女の姿を思い出す。
彼女はこの世界の「美」の概念を凝縮したような存在だ。
黄金の髪、エメラルドの瞳、そして慈愛に満ちた微笑み。
ゲーム内での彼女は、多くの男性キャラクターを虜にし、プレイヤーである俺たちをも熱狂させた。
文字通り、住む世界が違う。
「だいたい、俺は社交界なんて大嫌いなんだよ……」
貴族の会話なんて、腹の探り合いばかりだ。
『今日は良いお天気ですわね(訳:お前の派閥の情勢はどうだ?)』
『ええ、嵐が来そうですわ(訳:お前のところは潰れそうだな)』
そんな会話を延々と繰り返すなんて、残業続きの会議よりも苦痛だ。
俺はただ、のんびりと趣味に没頭したいだけなのに。
「……はぁ」
大きなため息をつき、俺はドサリとベッドに倒れ込んだ。
天井の豪華なシャンデリアを見上げながら、俺は遠い前世の記憶を手繰り寄せた。
前世の俺――佐藤タクヤは、ごく普通の家庭に生まれた。
家族構成は両親と、二人の姉。俺は三番目の子、末っ子長男だった。
「タクヤ! あんた暇でしょ? コンビニでアイス買ってきて!」
「タクヤ! 私の部屋の掃除機かけといてよ。彼氏来るから」
「えー、タクヤこれ似合わなーい。ウケるー」
二人の姉は、強烈だった。
気が強く、口が達者で、俺のことを便利な道具か着せ替え人形のように扱った。
幼い頃の俺は、姉たちに逆らうことなど許されず、常に彼女たちの顔色を伺って生きてきた。
「女って怖い。リアルな女性って面倒くさい」
そんな刷り込みが、幼少期から骨の髄まで染み込んでいた。
そんな俺が変わったのは、中学に入ってからだ。
クラスで偶然、同じアニメの話で盛り上がれる友人ができた。
「お前もこれ見てんの!? マジで!?」
初めてできた心の許せる仲間。
俺たちは放課後になると、カードショップに入り浸り、深夜アニメの感想を語り合った。
姉たちの理不尽な命令から逃れるように、俺は二次元の世界へと没頭していった。
そして高校生になり、運命の出会いを果たす。
友人に勧められてプレイした美少女ゲームだ。
『先輩、ずっと待ってました……!』
画面の中のヒロインは、優しかった。
姉たちのように理不尽に怒鳴ることもない。俺をパシリに使うこともない。
ただひたすらに俺を慕い、肯定し、愛してくれる。
「……ここは天国か」
俺は沼に落ちた。
リアルな恋愛なんてクソ食らえ。俺には画面の中の彼女たちがいればいい。
そうして俺は、立派なオタクへと成長した。
社会人になってからも、その情熱は冷めることはなく、むしろ辛い現実からの唯一の逃避場所として、ゲームへの依存度は高まっていった。
『セイクリッド・アカデミー』も、そんな俺の癒やしの一つだったはずだ。
特にリリアーナ王女は、俺の理想を具現化したような存在だった。
高貴で、美しく、それでいて慈愛に満ちている。
リアルな姉たちとは正反対の、完璧な女性。
「それが、まさか……」
俺はベッドの上で寝返りを打った。
ゲームのヒロインとして見る分には最高だった。
だが、現実に婚約者として関わるとなると話は別だ。
彼女は王族だ。その背後には国王、貴族社会、政治、そして国の命運といった、とてつもなく面倒で重いものがセットで付いてくる。
しかも、彼女の周囲には、ゲームの攻略対象であるイケメンたちが群がってくるのだ。
「俺は、モブで良かったんだよ……。壁の花で良かったんだ……」
主人公のライバルなんて、荷が重すぎる。
ましてや、メインヒロインの婚約者なんて、死亡フラグの塊でしかない。
もし俺がリリアーナを幸せにできなければ?
もし俺が彼女の期待を裏切ったら?
あるいは、原作の主人公が現れて、リリアーナが彼に心移りしたら?
その時に待っているのは、断罪か、追放か、死か。
「……待てよ?」
ふと、嫌な予感が脳裏をよぎった。
前世の記憶と、今世の状況。
姉たちにこき使われていた「末っ子のタクヤ」と、王女に振り回されるであろう「婚約者のヴィンセント」。
リリアーナ王女は、今は猫を被っているだけかもしれない。
ゲームでは描かれなかったが、素の彼女はもっと……姉たちのように……?
いや、それ以上に、王族特有の「圧」を持った、最強の理不尽キャラになる可能性はないか?
『ヴィンセント様、私のお願いが聞けませんの?』
『まあ、公爵家の次期当主ともあろうお方が、情けない』
『私のために死んでくださいますわよね?』
脳内で、リリアーナの声が姉たちの口調に変換されて再生される。
それは、かつてない恐怖となって俺を襲った。
「う、うわああああああああああ!!」
俺は再び絶叫した。
前世のトラウマと、今世の未来への絶望がリンクした瞬間だった。
ガバッと起き上がり、髪をかきむしる。
「無理だ! 絶対に無理だ! リアルな女との恋愛なんて、ましてや王女様となんて、俺のメンタルが持たない!!」
俺の叫び声は、分厚い扉を突き抜け、廊下へと響き渡ったのだろう。
ドタドタと足音が近づいてくる気配がする。
「ぼ、坊っちゃま!? いかがなさいましたか!?」
セバスチャンの焦った声が聞こえる。
俺は布団を頭から被り、ダンゴムシのように丸まった。
「……もう嫌だ。部屋から出たくない」
俺の小さな呟きは、誰にも届かなかった。
しかし、屋敷の使用人たちの間では、確信めいた噂が広まることとなった。
――ヴィンセント様は、リリアーナ様への愛が深すぎるあまり、その喜びの重圧に耐えきれず、完全に情緒不安定になられたようだ、と。
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