「きれいなものだけ」

@hasoyam

第1話絶望

たぷん……曾祖母が発した、水に浮かぶ水死体の音が、今も脳裏に響く。


望海ちゃぁぁ……ん……


ドシャえもんじゃなくてねぇぇぇ……


・・・・・・


めくれ上がったTシャツから出た腹をそのままに、動画を見て笑っているこう

食事中に彼が発した言葉が、望海のぞみの頭からぴたりと貼りつき離れない。


「赤ん坊がいなくても俺がいるじゃん?」


最初、不意に放たれた言葉の意味が分からず、望海は箸を止めた。しかし。


赤ん坊がいなくても可愛い俺がいる。

だから、満足だろう?


という意味だと察した瞬間……頬がかっと熱くなるのと同時に、喉に冷たい刃が差し込まれたような気持ち悪い感覚が望海を襲った。


「きゅるん♪」


40に近い、だらしない体型の男が言うセリフかよ!


無言で望海はカレイの煮つけに箸を移動させ、箸先で器用に身をほぐし口へと運ぶ。

美味しくできたと自分を褒めたくなった時、

幸が「骨めんどくせー」と言いながらカレイの皿を望海につきつけた。


「ん!」

「?」

「ん!ん!骨取ってよ。面倒だから」


無言で皿を受け取り、骨を取り除いてから幸へと渡す。


「あー!自分のより乱暴にほぐしたな!」

「魚の骨くらい自分で取りなよ」


ため息をつきながらカレイを食べ始める望海に、幸はニコニコしながら冒頭の言葉を発したのだ。


「赤ん坊がいなくても俺がいるじゃん?」


そう言いながら、幸はわざと腹をぽよんと動かしてみせた。絶句する望海。


どうやってお前を可愛がれっていうのよ!


柔らかく煮つけたカレイの白身に望海が幸のデロンとした腹を連想し、思わず箸を持つ手に力が入る。


やだ!キモッ!


そう思った瞬間、カレイが皿から大きくはみ出し、テーブルに落ちた。


「なんだよぉ。魚好きって言ってるくせに。へたくそ~」


望海がほぐしてやったカレイを食べながら笑う幸。

「ごめん」と小さく言う望海を気にせず、さっさと食事を終え、ソファに寝転がる。


その拍子にTシャツがめくれ、デロンと腹が飛び出す。それは煮つける前のカレイの身までも連想させるブヨブヨさだった。


テーブルに散らばったカレイを拾う手に力が入る。

グチャ……。美味しかったカレイが醜く潰れる。


汚い……なんて汚いんだろう。


清らかな空気をまとう赤ちゃんと幸とでは、その存在感に雲泥の差がありすぎる。

だらしなくたるんだ青白い肌と、生命力に満ちた張りのある肌を同等にするなんて!

神への冒涜としか考えられない!


不妊症で悩む妻を気遣い、ふざけたのかもしれない。

でも、幸の発言はあまりにも無神経ではないか!

望海は怒りを腹に吐き出し続けた。


この人はどうして私をイラだたせる発言ばかりするのかしら?

私が1人で食器を洗っているのに呑気に動画鑑賞?

自分が楽しければそれでいいと思っているのかしら?

私の気持ちはどうでもいいってわけ?


イラつき、大きな音を立てながら食器を洗う望海の視界に再び、白くブヨブヨとした幸の腹が目に入ってくる。

望海の中で殺意は爆発寸前だ。

しかし、実行にはうつさない。


世の中の妻が夫に殺意を抱くのは一度や二度ではないでしょう?


そこまで考えると、望海は数回、心の中で夫の腹にブスブスと包丁を突き立てることにした。


ブヨブヨの白いお腹なら豆腐みたいに刺さるでしょうね……。あ、明日の朝は豆腐の味噌汁に。そこまで考えた時だった。


望海の脳裏に曾祖母の顔が浮かぶ。

同時に「たぷん」と言う曾祖母の声も蘇った。


え……?


望海の曾祖母は郊外の古い日本家屋に1人で暮らしていた。

娘である祖母が何度も同居を提案したが、首を縦に振らない。


「なれたとぉころひゃ一番」


歯の少なくなった口をフガフガさせながら、言い張る曾祖母。

そのため、祖母は頻繁に曾祖母のところに通っていた。


盆休みになると望海も連れて行かれる。

曾祖母が初のひ孫だから、会いたがっているのだ。


曾祖母と望海は90歳離れており、小学校に上がる前の子どもには、不気味な印象を与えた。そのため、曾祖母の家に行っても望海は母の後ろにかくれてばかり。


祖母に「ひっつき虫だね」とからかわれると「虫じゃないもん!」と飛びつく望海だったが。

大きいおばあちゃんのところにも、と体を押されると固まってしまう。


「恥ずかしいのかなぁ」


困った顔をする父親を見ると、小さな罪悪感を覚えるのに望海は曾祖母への恐怖をぬぐえない。他の大人と比べ、シワが多く、目が見えないほどまぶたが垂れ下がっている様子が怖くて仕方がないのだ。


望海を見る時には指でちょいとまぶたを持ち上げる。

その時に見える瞳はひどく小さいのに、異様な光を帯びていた。


絵本で見た山姥みたい……。


ワーンと大泣きする望海を見て、

曾祖母は「ほっほっほ」と笑うのだった。


そのため望海が曾祖母と2人きりにならないよう、

大人達は気をつけていたのに。


あの時だけは望海と曾祖母だけが縁側にいた。


誰か早く来てくれないかな……


そう思いながら絵本に集中するふりをし続けていたのに、

望海の気持ちにお構いなく曾祖母がもぞもぞと近づく。


ダメ!来ないで!お願い!


望海の願いもむなしく、曾祖母は「ひょっこらせよっこらせ」と横に座る。


へほん絵本好きゃなの?」

かひ菓子食べぇるかい?」


なんとか振り向かせようと話しかけてくるが、絵本から視線を外さない望海。


しばらくして、曾祖母の深いため息を望海は耳にした。

そうなると、幼いながら曾祖母が気の毒なように思えてくる。


怖いけど……お菓子、食べてあげようかな……


そう思った時、曾祖母が妙なことを言い出した。


「ド……もんって知ってるきゃい?」

「ドシャえもん?」



と曾祖母は訂正するが幼い望海は口が回らず、どうしても「ドシャえもん」となってしまう。


何度も繰り返すうちに笑いがこみ上げ、2人してアハハと笑った。


笑った大きいおばあちゃんはちょっと可愛いな。


硬かった望海の心がほぐれ、そっと曾祖母にくっつく。


「どうしてちっちゃいのに大きいおばあちゃんなの?」

「大きいってね、いっぱい歳を取ったってことさ」

「いっぱい?」

「お前しゃんが生まれる90年も前に私は生まれてね」

「90っておさむらいさんの時代?」


そこまで昔じゃないね、と笑いながら曾祖母は「ひょっこらせ」と庭に降りた。

望海もつられて庭に降りる。

腰の曲がった曾祖母は幼児の望海と並んでも身長は少し高いくらい。


そっか、背じゃなくて年が大きいんだ。


90という、幼児の望海にとっては未知の数字に思いを馳せながら、望海は曾祖母の横を歩いた。大きいの意味がわかったことで、望海は曾祖母が怖くなくなり始める。


幼稚園の先生もお年寄りには親切にって言ってたし。


先生の言葉を思い出していた望海にふと妙な音が聞こえた気がした。


たぷ……


「あれ?なにか聞こえた?」

「ああ?」


少し間の抜けた返答をする曾祖母を見て、望海は声を出して笑う。

曾祖母もひ孫の笑顔を見て「ほっほっほ」と笑った。


少し打ち解けた様子でゆっくりと庭を歩く2人。

そのまま和やかな空気が続くと思ったのだが。


井戸の近くまで来ると、曾祖母の動きがピタリと止まった。


「土左衛門は、水に「たぷん」って浮かぶ死んだ人間」


突然、曾祖母の口調がはっきりし始める。


「大きいおばあちゃん?」


井戸を覗きながら、話し続ける曾祖母。


たぷん。


そうつぶやいた曾祖母は井戸から望海に顔をむける。


たぷん……


ゆっくりと曾祖母の口が動く。

曾祖母が指でちょいとまぶたを持ち上げる。

ちらりと見える小さな目は、異様に輝いていた。


怖い!


望海の身体が固まり、曾祖母のそばを離れられない。


「大きい……おばあちゃん?」


望海の声に反応するかのように曾祖母の口が動き出した。


「昔はね、この村の川は子どもの遊び場だったんだ」

「あの川?」

「そう、あの川。たまに、土左衛門と呼ばれる水死体が、流れてくるんだ」

「え?」


目を見開く望海を気にすることなく曾祖母は話を続ける。


「みんな大騒ぎさ」

「怖いもんね」

「違うよ。新しい遊びができるんでうれしいんだ」

「死んじゃった人が浮かんでるのに?」


もし、幼稚園のプールにそんなものが浮いていたら。

望海は思わず口に手を当てた。


「誰にも葬られず、水に「たぷん」って浮かんでるんだ」


曾祖母が「たぷん」と言い、望海の肩がピクリとなる。


「ろくな死に方をした奴じゃあない。だからね……棒でつついて遊ぶのさ」


望海は思わず「ひっ」と声をもらした。


「たぷん……って浮かぶ水死体を、土左衛門、どざえもぉぉん、てね」

「ええ……」

「ブヨブヨと青白い水死体をつつくのは、悪人退治なのさ。私らは悪くねーってね」

「へんだよう」


べそをかく望海。


「そうはいっても、元は人間だ。大人が許すはずはない。目ん玉向いてすっ飛んできてね、こらー!って」

「怒られるの……、いやだ」

「蜘蛛の子を散らすようにわぁーって逃げるのがスリルとサスペンスゥって感じでさ。」


おどけるような口調で言ってはいるが、幼い望海には不気味過ぎる内容だ。


「どうしてドシャえもんって呼ぶの……?」


不気味に思いながらも望海は気になっていた呼び名に触れた。

曾祖母は笑って説明を続ける。

望海の目に涙がたまっていることにも気づかずに。

土左衛門について話しを続ける。

曾祖母の目は、異様な輝きを増しているように見えた。


「ドシャえもんじゃない、土左衛門。色白で太った力士で、そういう名前の人がいたのさ。水死体がその力士とまた似ていたそうでね……」

「やめてぇ……やめてよう」


たまたま通りかかった祖母が、ブルブル震える望海に気づく。

孫の異変に気付き声を荒げる祖母。


「お母さん!」


怖くて凍り付いていた望海は祖母の声を聞いた途端、ワッと泣き出す。

面白くなかったひゃねぇという曾祖母と、

子どもに変なこと言わないでと怒る祖母。


祖母に助けを求めた望海が駆け寄った時、

わーっと騒ぎが起こった気がするのだが。


どん、となにかぶつかった気もする。

そこで、望海の記憶は途切れていた。


どうして覚えていないのかしら?


すると「たぷん」という曾祖母の声が耳に響いた気がした。

あまりの気味悪さにぞっとして頭を左右に振った。


「どうしたの?」


幸が望海に声をかける。不思議そうに見つめていることに気づき慌てた。


その瞬間、洗剤が腕を伝い床にポトリと落ちる。


「な、なんでもない」


慌てて床を拭く望海だったが、また「たぷん」と声がと聞こえた気がしてキョロキョロ周囲を見回す。

しかし、幸以外は誰もいない。

曾祖母の気配を感じた気がしたのだけれど。

まさかね、だって、曾祖母は30年以上も前に……。


ため息をつきながら立ち上がる望海を、不思議そうに幸はしばらく見ていたが、

また動画へ興味を戻し、ぎゃははと笑う。


妻がどことなくおかしいと思っても、手伝おうかの一言もないんだ。


口をキュッと結び、望海は立ち上がった。


気味の悪い話を思い出したことで、幸のTシャツからはみ出たブヨブヨの腹が、曾祖母のたぷんと重なり鳥肌が立つ。


嫌だ!私ったら。


幸が望海に声をかけたのはそんな時だった。


「そんなに魅力的?たぷん♪」


腹の肉をつまみふざける幸に、ぞわりとする。


いやだ、たぷんだなんて。


曾祖母の口から発せられた「たぷん」を思い出し、

思わず眉間にしわを寄せる望海。

しかし、幸のふざけた表情と動きを見ているうちに冷静さを取り戻し、

げんなりとした気分のまま食器洗いを再開する。


お前の贅肉が魅力的?

冗談じゃないわよ!


心の中で毒づきながら洗い物をしていると、

背後に夫の気配を感じ、望海の背筋に悪寒が走った。

曾祖母のたぷんが聞こえた時とはまた違う嫌悪感だった。


「なに?」

「食器まだ洗うのかなって」

「洗いますよ。私が洗わなかったらだれも洗わないでしょ!」


自分でも驚くほど冷たい声がでる。


しまったと思ったが、一度声にしたものは、望海と幸の間に深い溝を作ってしまう。幸の手が中途半端に伸びたまま止まった。


笑顔のない妻に「かわいげないよな」と呟きを残し、

再びソファに寝転がり動画に集中し始める。

1分もたたないうちに、気の抜けた笑い声が聞こえてきた。


私への気持ちなんてそんな程度か。


日頃のスキンシップが大切だということはわかる。

赤ちゃんが欲しいのなら、なおさら。でも……


夫から気遣いひとつも感じない!

幼稚な発言ばかり!

心もズタズタになるわよ!

受け入れる余裕がないほど傷ついているの!

欲しいのは寝転がる大きくてブヨブヨの夫じゃない!

小さく清らかな赤ちゃんなの!


いくら望んでも来てくれない赤ちゃんに対して、

私が心をきしませているなんて、この男は一生気づかないのだろう。

望海は見えない涙を流しながら食器を洗い続けた。


「お風呂、入らないの?」

「うーん……」


立ち上がるのも面倒くさそうだったが、理由はわからずとも望海の不機嫌さに気づいたのだろう。

幸はソファから立ち上がり風呂場へと向かった。

だが、動画は再生されたままだ。


不愉快な音にイラつきながらスマホを拾い動画を消すと、

うるさかった部屋がしんと静まり返った。

ようやく訪れた静寂にホッとした瞬間、風呂場から呑気な鼻歌が聞こえてきた。


最低……。


蛇口のレバーを思い切り上げ望海は大声で泣く。

排水溝の奥からまた、曾祖母の「たぷん」が聞こえたような気がした。

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