静かに生きていきたくて

kei

静かに生きていきたくて

イヤーマフが欲しかった。冬に耳に当てるやつではなく、まあ見た目は似ているが、音を遮断するほうだ。射撃練習で耳につける、アレ。性能が何段階かあるらしく、良いものは結構高いので、学生の身分では手が出せない。次点でノイズキャンセルヘッドホンが欲しかったが、これもなかなかなお値段であった。


なぜ防音用のイヤーマフが欲しいかというと、いわゆるところの聴覚過敏だからである。私は、大きい音や高い音が苦手だ。苦手では済まない。本当に耳が痛くなるのだ。ひたすら、静かに生きていきたいだけなのに。


駅のアナウンス。掃除機。テレビの音。古い扉。電話で高くなる声。映画の上映前に流れる音響アピール。どこもかしこも罠だらけだ。体調が最悪なときには、自分の声や咀嚼音ですらダメだった。


学校。そう、学びの場であるはずの学校においてすら。


「水島さん本当に音ダメなの?」


と、へらへら笑って言いながら、クラスメイトは乱雑に扉を開け、わざわざ近くで金属のペンケースを落とし、耳元で大きな声を出す。


耳をふさいで、必死にやめてと言っても、笑うばかりでやめてくれない。とうとう私が泣き出すと、被害者面してんじゃねえよ、と吐き捨てる。


家族は誰も信じてくれない。テレビの音量をおかしなくらいに上げ、わざわざ私がいる部屋を狙って掃除機をかける。それならと、掃除の間だけでも家を出ようとしたら、母は、私を加害者にすれば満足か、と言って泣き出すのだ。況や家庭においてをやというやつである。やんぬるかな。


調べれば、世の中に聴覚過敏の人は多いらしい。なぜ目の前の私が詐病であると決めてかかるのか、はなはだ理解しかねる。


学校に行きたくなさすぎて、着いてはトイレで吐き戻す。家に帰りたくなくて、帰り道は涙が止まらない。街は騒音だらけだ。どこにも居場所は無かった。ストレスで食も細くなり、体型だけはスリムになったとして、それがどうしてメリットに思えるだろう。


あまりに毎日つらいので、イヤーマフは買えないにせよ、ライブ用の耳栓を買うことにした。よく見る、ふわふわの樹脂のやつじゃない。複数のヒダがついているやつだ。耳掃除をしっかりしないとすぐに汚れてしまうことと、自分の咀嚼音や声が響いてしまうのが難点であるが背に腹は代えられない。


深めに帽子を被り、マスクで顔を隠してCDショップのレジ横の耳栓コーナーに行く。うっかり見咎められて、音響が苦手と言っているのにあいつライブに行くのかよとでも思われたらコトである。


「水島さんは、ライブに行くのか?」


いきなり後ろから声をかけられ、驚きのあまり肩まで跳ね上げて振り向いてしまった。明らかに不審である。やっちまったと言う他ない。


そこに居たのは同じクラスの吉野くんだ。吉野くんは忍者のように音を立てない。それだけで高評価している。


「行かない行かない。耳栓欲しいだけ」

「僕はそこの銀色の筒がついた耳栓を使っている」


ほら、と、自分の筒を見せてくる。


「へえ、勉強とかに?」

「勉強のときにも使う。音が苦手だから」

「そうなんだ」


待て。いま、僕『も』と言ったか。


「え、吉野くんも?」

「水島さんは、いつも騒ぐひとに注意しているだろう。偉いと思う」

「あれは、注意じゃなくて懇願だけど」

「それでもだ。学校は勉強をするために通うところだろうに、彼らは何が目的なのやら」

「そう、思うよね」

「耳栓、買わないのか?買わないなら僕が買う。予備を買いに来たんだ」


店頭にはちょうど二つあったのでひとつずつ買うことにした。


「おすすめ教えてくれてありがとう」

「おすすめというわけじゃない」

「それでもいいの」


2セット入っていたぶんのMサイズを取り出して耳にはめる。周囲の音がわずかなりと良識的になったように思えた。


「では、また明日学校で」

「うん、また明日ね」


よく考えればお揃いである。まあ、彼はお揃いだとしても気にしないのかもしれないが、少し目の前が明るくなったような気がした。


事が起こったのは、その翌日である。


いつものように私のまわりでガシャガシャと音を立てては囃し立てる男子の背後に、音もなく吉野くんが忍び寄り、一気に腕をひねり上げた。


「吉野?何すんだやめろ離せ!」

「やめてくれと、いつも水島さんが言っているのに、お前はやめないだろう。なぜ僕がやめる必要がある?」

「まさかコイツにイイコトでも、痛え!」


吉野くんはさらにひねり上げて持ち上げる勢いだ。ここまで怪力だとは思わなかった。吉野くんは普段から無表情だが、ますます冴えわたる無表情。


助けてくれたはずの吉野くんが怖くて、ただ呆然と見上げることしかできなかった。


「もうしない、もうしないから離してくれ!」


そう言う彼の腕を吉野くんが離す。こちらを向いた吉野くんは、勢いよく殴られ、後ろの椅子ごと吹き飛んだ。


駆けつけた担任に事のあらましをなんとか説明し、吉野くんは不問に付されることにはなった。


帰りに校門で待つと、頬を腫らした吉野くんが何事も無かったかのように出てくる。


「吉野くん」

「水島さん、大丈夫?」

「何が?」

「結局大きい音を立てることになってしまったから、耳、痛かったのでは」

「それより、吉野くんのほうが」

「僕は殴られ慣れている。父からすると、僕は何を考えているのかまるでわからないらしい」

「それで殴って良いことにはならないでしょう」


吉野くんは、不思議そうにまばたきする。意外と目が綺麗だ。


「そういうものだろうか」

「そうだよ。吉野くんは殴られていいひとじゃない」

「そういうものか」

「さっきはありがとう」

「なぜ礼を言うんだ?」

「守ろうとしてくれたんじゃないの?」

「何を考えているのかわからん、言葉の通じんやつを止めるには、あれしか思いつかなかった。水島さんは、いつも説得を試みて失敗していたから」


なんだかおかしくなって笑ってしまった。


「いつものあれ、説得じゃないよ」

「何度聞いてもひとの言葉を理解しないとは、彼は余程耳が遠いか、国語の成績が悪いとみえる」


なかなか言う。私がけらけらと笑っても、吉野くんは不思議そうな顔をするだけだった。


翌日。


今日は耳が痛くない、と、気付いた。気付いてしまった。


私は、周囲の音が、明らかに平気になってしまっていた。


吉野くんを、置き去りにしてしまったと思った。自分が助かったということよりも、そのことだけで頭がいっぱいになった。


あれだけ、痛くもしんどくもない生活に憧れていたはずなのに。マイナスがゼロになっただけだ。何にも嬉しいことはなかった。


それから、吉野くんの顔を、まともに見られなくなってしまった。


もともとよく話していたわけでもなかったし、親しかったわけでもないのに。バレてしまいやしないかと、怖くなってしまった。悪いことなんて何ひとつしていないのに、裏切ってしまったような気になった。


数日のあいだに、何度か、話しかけようとされた。そのたびに誤魔化しては、少し離れたところに行く。我ながら不自然である。離れたところから振り返ると、吉野くんは何事もなかったかのような顔をしている。避けたのは自分なのに、少し残念な気がしてしまう。


あの騒動のおかげか、私のまわりでわざと大きな音を立てるひとは居なくなっていた。痛くなくても耳障りだったので、それは助かった。


吉野くんに話しかけるひとも、いなくなっていた。


そうして、少し遠くから見ているうちに、気付いた。集会で音の割れたスピーカーから音がしたとき。駅のアナウンス。誰かが取り落としたフォーク。すっかり平気になって意識もしなくなった音。そのたびに、吉野くんは、肩をびくつかせ、苦しそうに眉をひそめ、時折耳に手をやる。


いまの私には、もう、わからない。なんであんなに痛かったのか。どうして、吉野くんがつらいのか。だって、同じものを聞いているはずなのに、私は全然痛くない。


クラスの皆にも、親にも、こんなふうに見えていたのか、とようやくわかった。


幽霊のようなものだ。『見えない』ひとには、『見える』ひとの怯えはわからない。私も、もう、世界のあちこちに潜んでいたはずの、いつも怯えていたはずの激痛は、自分ごととしては掴めなくなってしまった。


それでも。


少なくとも私は、彼が本当に痛いと感じていることを知っている。それが嘘ではないことを知っている。


彼が私のためと思っていなかったとしても、お勧めの耳栓を教えてくれたり、少しでも共感できたと思えたときの嬉しさを覚えている。


やっぱりきちんと話そう。私の耳の状態が急に良くなったなら、彼も楽になる日が来るかもしれないじゃないか。


放課後、彼を待った。こうして待つのは二回目だ。


「吉野くん」

「水島さん、僕を避けていたんじゃ」

「それは、ごめん。色々あったの。今日は話があって」

「そうか。僕にも話がある。帰りながら話そう」


話。吉野くんから話があるとは思っていなかった。少し先を歩く吉野くんの背中は、思っていたより大きい。


彼は少し振り返り、先にどうぞ、と言う。


「これ、渡したくて」


私のぶんの、耳栓の筒。


「Lサイズは使わないから。予備、必要でしょう」

「ありがとう」


彼は素直に受け取り、そそくさと耳に着ける。確かに、話をしているのに目の前で耳栓をされると、少し気にしてしまいそうになる。


気にしては、いけない。彼がかつての私と同じ状態なら、女子である私の声でも耳に痛く感じてしまうかもしれない。


「楽になった?」

「なった。僕からの話、していいか?」

「なに?」

「少し前から、水島さん、耳が痛くなくなっただろう」


バレていた。それはそうか。


「うん。それで、なんだか気まずくて」

「何を気にすることがある。楽になるのは良いことだろう」

「だって、吉野くんはまだつらいのに」

「僕の耳が痛いのは僕の問題で、水島さんがそれに合わせる必要は無い」

「そうは言ってもさ」

「水島さんまで痛くないほうがいいに決まっているだろう。苦しむ顔をわざわざ見たい奴は変態だと思わないか」

「いやそれはそうだけども」

「誰が信じてくれなくても、水島さんだけでも、僕が嘘をついていないとわかってくれているだけで、僕はうれしい。それに、好きな女子には笑っていてほしいと思うものじゃないか」

「そうなんだ」


待て。『好きな女子』と言ったか。


「え、いま、何て?」


自分の耳を少し触りながら、耳栓お揃いで嬉しかった、と言う吉野くんは、はじめて少し笑った。

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